【報告】L2プロジェクト第8回研究会「フェミニスト現象学と障害」
2012年10月15日(月)、上廣共生哲学寄付研究部門L2「共生のための障害の哲学」プロジェクトの第8回研究会「フェミニスト現象学と障害」が開催された。齋藤瞳氏(日本大学 通信教育部 非常勤講師)、筒井晴香氏(立教大学/日本学術振興会 特別研究員 PD)、宮原優氏(いわき明星大学 非常勤講師)を講演者として迎えた。
初めに齋藤氏が「私の身体はどこまで私のものか」と題して講演を行った。まず齋藤氏は、ロックの『市民政府論』に言及しながら「私の身体」は「私」の所有物であり、「私」は自分自身の「身体」に対する所有権をもっているという考えを導き出した。続いて、この「身体=私のもの」という図式は女性の身体の場合には揺らぐケースが多いと彼女は指摘した。中絶、代理母出産、着床前診断、出生前診断、養育、介護など、「身体=私のもの」という図式が必ずしも該当しないケースが自己(身体)所有論に関する多様な考察を求めている。齋藤氏は、「『私』の身体に関する権限は自分以外の誰にも属さない、『自分のもの』であるとどこまでいえるのだろうか」という問いかけをし、代理母出産に焦点を絞って、そこに発生するいくつかの問題を取り上げながら、「身体=私のもの」という図式を再考した。とりわけ、この講演では、日本とアメリカでの代理母出産に関する事例を挙げて、新たな自己(身体)所有論の可能性について論及した。つまり、齋藤氏は、「私」は私自身の身体に対する所有権をもち、「私の身体」に関する事柄の決定権は「私」にある、という一般論から始めて、代理母出産をめぐる状況を考察しながら、「身体=私のもの」という「身体観の変更」を考えた。この講演で述べられていたように、「私の身体は私だけのものではない」と、私たちが述べるとき、他者の介入を一定程度許容する必要性もあるだろうし、そのことから危険が生じることもあり得るのである。「私の身体は私だけのものではない」と、私たちが口にするときには、これが自己決定権を放棄することを意味するのではないと、齋藤氏は強く主張し、このような「身体観の変更」がどこまで有効なのかという問題へとさらに展開していく。
次に、筒井氏が「『私の脳が男/女だから』~『男脳・女脳』言説とナラティヴ」と題して、講演を行った。TV番組や本・雑誌などでよく目にする「男脳・女脳」に関連した言説においては、性差の固定観念に沿った仕方での科学的知見の誇張表現や偏った解釈がしばしばみられる。このような言説の主な特徴は、「脳」や「脳科学」といったキーワードを使いながら、実際の内容は科学よりも人間関係の安定や自己実現をテーマとし、日常生活の中の事例を中心に書かれている点であると、筒井氏は指摘した。ここで特に注目すべきこととして筒井氏が挙げたのは、日常生活の中で広く使われているメタファーとしての「脳」という語だった。「男脳・女脳」についての言説が私たちの経験についての語りの材料として使われるようになると筒井氏は考えた。この講演では、疾病や障害に関するナラティヴ研究を参照しつつ、経験についての物語が構築される過程で、「脳の性差」への言及がどのように使用されうるかという観点から「男脳・女脳」言説やそれに対する反応を考察した。そして、その考察を基にして、科学的・生物学的説明と物語的説明の関係性について考えた。
最後に、宮原氏が「現象学的観点から見るアシュリー事件」と題して、講演を行った。この講演の中で、宮原氏はメルロ=ポンティの『幼児の対人関係』と『見えるものと見えざるもの』を理論的な基盤として、「アシュリー事件」に見られる両親とアシュリーの関係のあり方を考察した。2004年、シアトルに在住の重度重複障害の6歳になる少女アシュリーに対して3種類の医療介入(1.ホルモン大量投与で最終身長を制限する、2.子宮摘出で生理と生理痛を取り除く、3.初期乳房芽の摘出で乳房の生育を制限する)が行われた。アシュリー事件とは、こうした医療介入、およびこれによって生じた様々な倫理的・法的な議論のことを示す。彼女の両親は、これは介護者の都合によって行われた介入ではなく、あくまで、アシュリーのクオリティオブライフの最大化を目的としたと主張した。この医療介入をきっかけに、アシュリーの尊厳を訴える立場からの批判、医療上の妥当性を問う批判、優生思想を懸念する批判などが多く出てきた。しかし、宮原氏の考察は、そのような批判や反論を目的とするものではなく、この親子の間にどのような関係が生じているのか、またどのような関係の下で両親がこうした医療行為を決断しうるのか、と問いかけることを目的としていた。その問いかけのために、宮原氏はもうひと組の親子の関係の在り方に注目した。この事件に強く反発し、その経緯やその後の展開を一冊の著書にまとめた『アシュリー事件』の著者、児玉とアシュリーと同じく重度重複障害をもつその娘である。現象学的な視座からこの2組の親子の関係を分析していく中で、この講演は、聴講者にこの2組が対話しているような感覚をもたせた。
この講演会は「障害」と「フェミニスト現象学」をテーマとしていた。それぞれの講演者がそれぞれの視座から、身体観、脳、他者知覚を巡りある種の生命倫理について考察していた。最近の医学や脳科学の発達により、哲学的・倫理学的な考察を必要とする診断、医療介入、科学的知識等が増えてきていることは確かである。この研究会では,これらの発達により人間・生命の意味が揺らぎ始めたことから,新たな考え方を構築しようとする運動がみられる。まず、出生前診断の問題は「障害」に深く関係してくる。また、「障害」という問題を扱う上で、脳の仕組みや脳における差異に関して新たに得られた知見をどう受け止めるべきかは重要な問題である。そして、「アシュリー事件」での少女の成長に関わる医療介入の問題を知ることで、障害をもつものとその家族が置かれた環境の問題点について再考するきっかけを与えてくれるのではないだろうか。それぞれの講演が終わった後、白熱した質疑応答が行われ、多くのことを考えさせられた。この研究会を通して、これまで医学や脳科学についての知識が必要とされ、医療・科学関係者の意見が重視されることが多かったが、3人の講演者が哲学的な見地に立って対話を始めたことで、新たな議論の可能性が生まれたことが明らかになったのではないだろうか。
(報告:稲原美苗)