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【報告】中国・長春文廟フィールドワーク

2012.10.08 石井剛

 UTCPメンバーとして、中島隆博とわたしは、フランス現代中国研究センターとの共同プログラム「The Confucian Revival in Contemporary China: Forms and Meanings of Confucian Piety Today」に参加している。中国大陸において、2000年代に入り急速に顕著になっている「儒学復興」のムーヴメントに対して、人類学=哲学的アプローチによる理解と考察を行う試みだ。

その一環として、このたび、わたしは単独で再び中国吉林省長春市を訪問し、当地の文廟(孔子廟のこと)を中心とする伝統文化再構築の現状に関する調査を行った。これは、2010年に続く2度目の訪問であり、今回は、前回からの大きな変化を目の当たりにするとともに、前回知り得たことを踏まえた再調査を行うことができた(前回の調査については、当ブログで報告したので参照していただきたい)。

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改修で新たに立てられた鼓楼。東側の鐘楼と線対称をなし、朝と夕に時を告げるという(晨鐘暮鼓)。

 伝統文化の復興がなぜ問題となるのかと言えば、それは中国の近代化が伝統に対するトータルな破壊と否定を目指す革命(林毓生LIN Yushengのいわゆるtotalistic iconoclastic thought or totalistic anti-traditionalism)として推進されたことによる。その画期となったのは、誕生まもない中華民国が袁世凱(1859-1916)による帝政復活を許したことに対する激しい思想的抵抗であった。文学者の魯迅(LU Xun 1881-1936)やのちに初期の中国共産党をリードした陳独秀(CHEN Duxiu 1879-1942)らは、復辟を許す政治的土壌の根底に、孔子をシンボルとする儒教や礼教のエトスが決定的に作用していると考え、そうした思想・文化を徹底的に破壊することを、人文的知の最もアクチュアルな課題に位置づけた。「人を食らう礼教」を否定し、「孔家店を打倒せよ」と叫ばれた1920年代前半までの一連の思想運動は、「五四」新文化運動と呼ばれる(日本による山東利権獲得への反対をきっかけに起こった1919年の五四運動が、この思想文化運動の名前にもなっていることにわたしたちは注意せずにはいられない)。その流れは、1949年に中華人民共和国が成立した後も変わらず、1966年から10年間にわたった「文化大革命」では、数多くの血の犠牲や、全国規模での伝統的文化財の破壊が生じた。いまでも全国各地の観光地で古刹をめぐれば、仏像の顔や腕や鼻がことごとくもがれ、削られているのをみることができる。集団的ヒステリーが極限に達した「十年の動乱」が中国社会に遺した傷はまだ完全に癒えてはいない。

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建設途上の「孔子文化園」。文廟の西に併設されている。

 改革開放政策が軌道に乗った1980年代には、極端な伝統否定を改めるように、孔子の教えや儒家思想が再び見直されるようになった。1990年代になると、全面的に市場経済を推進するようになった中国共産党にとって、マルクス=レーニン主義はもはやイデオロギーとしての機能を喪失していた。それに代わる新たな国家統合の文化的シンボルとして、孔子や儒家思想が強調されるようになるのがここおよそ10年ほどの傾向である。
 こうした変化の背景には、行き過ぎた経済建設中心主義が過度の拝金主義をもたらし、一般市民にまで、あらゆる腐敗現象が広がっていることに対する危惧も作用している。それはより根源的には法の根拠の不在というアポリアに対する思想的問いを含んでいる。すなわち、皇帝(天子)の絶対的権威によって国家が統べられていた時代から、共和制に移行することによって、皇権に代わる正統性が何によってどのように代表されるのかという問題が、20世紀以来、今日に至るまで持続的に問われ続けているのである。
 したがって、もし儒学的シンボルに頼って、以上のアジェンダに応えようとするならば、儒家の教えやプラクティスを、いかに市民化もしくは公共化するのかという課題が浮上してくるのも不思議なことではない。
 全国に点在する文廟は基本的に孔家の末裔が守り続ける家廟(宗廟)である。だが、長春文廟の活動で特徴的だと思われるのは、それが家廟としての性格を一掃して、政府組織下に入ることによって展開されていることだ。複雑な事情は省くが、文廟における伝統文化発揚の活動は形式的には市民自発型の民間公益活動であり、政府予算の他、地元企業の協賛を仰ぎながら、一般市民向けセミナー「国学大講堂」が頻繁に催される他、「成人礼」、「啓蒙礼」など古式を模した通過儀礼の式典を提供することによって、市民にとっては中華伝統への帰依体験の場となっている。これは、言ってしまえば、伝統的シンボルを巧みに利用した商業活動ということになるだろう。だが、急進的な伝統破壊、伝統否定の道を歩み、事実、伝統的シンボルのかたちを忘却してしまった人々にとって、民族的アイデンティティを文化的形式によって体感できるこうした経済的仕掛けが魅力的に映じるのも無理はない。
 こうした長春文廟の仕掛けが、市民社会の発展や成熟にどれほど寄与することになるのかはまったく未知数であると言うほかない。ましてや、伝統的シンボルとそれをめぐる宗教性によって支えられる市民性や公共性が何らかの別のアポリアを含んでいないのかという問いは、長春の現象を考察する場合にも当然問われてしかるべきであろう。だからこそ、上述のような近代史を経た中国でこのような現象が生じ、それが文化産業として一定のニーズを満たしているという事実を確認しておく必要はあるだろう。中国的文脈の中である種のモダニティが展開し、変容し、再生しているという生きたプロセスは、今後、慎重に考察されるべき意義を具えているに違いない。

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文廟の東側にあった市立小学校は「文廟小学校」に改称、校舎も建て替えた。

 報告の最後に、今回のフィールドワークが、政治的にきわめて敏感な時期であるにもかかわらず、ほぼ滞りなく行われたという、些末かも知れないが重要な事実を書き留めておきたい。いま、洋上の小島をめぐって、日本と中国の間では不毛な対立が続いている。今回の訪問は、過激な破壊活動が日本製品や日本企業に対して猖獗を極めた直後に行われた。だが、「9.18」(満洲事変勃発の日)を過ぎて、市民の抗議活動が沈静化したという事情が最も大きいが、調査に関わったすべての人たちが、この調査活動を守ろうとしてくれていたことを決して忘れるべきではないだろう。ことの遠因が日本の戦後処理の不徹底にあるにもかかわらず(少なくとも中国人の一般的な主観においてそれは紛れもない)、在留・訪問日本人の安全を確保しようとする社会的良知が粛々と機能しているという現実は、わたしたちにとって重たい。そして、そのような社会的良知は、つきつめれば、その社会を構成する一人一人の「義」と「善」によって支えられている。それらがある限り、責任ある応答(responsibility)は政治的見解の違いを超えて相互に成立するにちがいない。そのような「信」に支えられた対話が両国の間に取り戻されることを願うばかりである。

(報告:石井 剛)

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