梶谷真司「邂逅の記録21:ハワイ大学との共同夏季比較思想セミナー報告(12)」
《言葉を学ぶことと哲学的な資質》
P4Cスタイルの英語の授業を見学して、母語であれ外国語であれ、言葉を学ぶということがどういうことなのか、改めて考えさせられた。言葉というのは、他者に問いかけ、他者を理解し、他者に語るためのものだ。そして、その過程のすべてを通じて考えるためのものである。この場合の他者は、目の前にいなくてもいい。書かれたもの(書いた人)であってもいいし、自分が書いたものをいつか読む人であってもいい。むろん自分自身であってもいい。言葉を学ぶ意義は他にもあろうが、私たちがこの世で生きていくために重要なのは、まずはそういうことであるはずだ。
今回参加させてもらったP4Cによる授業では、そういう基本がそのまま授業を貫いていた。内容が哲学的であったことは、教員の趣味の問題であって、そうである必要はない。思考力を鍛えるには哲学がいいかもしれないが、生徒たちの「問う力」を見ると、別にどんなネタから始めても、哲学的な問いは出てきたのではないかと思う。実際ここでのP4Cは、P4Cのための(に関する)授業があるというより、P4C“による”授業なのであって、だからこそKailua高校では、社会や数学でも理科でも、このスタイルで教えているのだ。
何についてであれ、問うこと、考えること、理解すること、語ることは、相互に喚起しあい、深まり、広がっていく。だから、言葉の力を育てることは、哲学的な資質を育てることでもある。もちろんこれは、哲学に興味をもつようになることにはすぐにつながらないだろうし、そんな必要もない(そんなことはまったくどうでもいいことだ)。そうではなく、学ぶ基本的な姿勢に関わることであろう。
それに対して、日本の国語、英語の授業は、いったい何のためにあるのだろうか。その意味は判然としない。もちろんテストのため、入試のためである。しかし分からないのは、テストで必要な資質、入試で問われる力が、人生における言葉の能力とどう関連しているかである。生徒たちは、その最も大事な点が欠落したまま、ただテストのために言葉を勉強するよう仕向けられ、その点数でできるとかできないとか、力が伸びたとか下がったとか言われる。だから、大学に入ってテストがなくなると、目標を見失ったように途方にくれ、TOEICや漢字検定に精を出す。就職のためにもTOEICの点数を要求され、会社に入った後も、TOEICで規定の点数を取らないと昇進ができないようなルールがあったりする。一生、テストのためにしか言葉を学ばない──何と空しいことなのか。これは言葉に対する冒瀆ではないか。
もっと生きることにきちんとつながる言葉の学習があっていい。国語教育にせよ、英語教育にせよ、日本では、“正解”を出すことが最終目標になっている。文章を“正しく”読み、書くことが重視される。国語や英語だけでなく、すべての科目がそうだ。何のために正しくなければならないのか、正しいからそれで何なのか、本当に正しいのか──そういう反省はなく、ただ正しければいい、いや、正確に言えば、「正しいとされていること」を提示できればいい、という固定観念ができあがる。そして問うことは封じ込まれ、その結果、考えることも、理解することも、語ることも、正解を出すことだけに空費され、表面だけを上滑りして深まることはない。
言葉のみならず、あらゆる学びの場面で決定的なのが「問うこと」である。そのためには、間違えること、迷うこと、立ち止まることがあっていい。いや、むしろそれがあるからこそ、問いが続いていくのだ。そして正解が決まった出来合いの問題を無理やり考えさせるのではなく、生徒が興味をもつことが何より大事である。何が重要であるかは、子供が決める、そこから始めていく。これは心もとないように思われるかもしれないが、彼らのなかに受け止める素地がなければ、いくらこちらが大事だと言って与えても、受け取れはしない。せいぜい嫌々、もしくは何も考えずに飲み込むだけだ。彼らが大事だと思うところから始めて、そのあと大人が大事だと思うことに接続すればいいんであって、そうならなければ、結局それは重要ではないということだ。だから彼らが興味をもちさえすれば、そこから彼らは自ら問い、学んでいく。そして子供は、励ましさえすれば、本当に豊かな「問う力」をもっている。
いろんなことをいっぱい考えさせられ、いっぱい語りたい気持ちになる(そして実際いっぱい書いてしまった)、そんな体験であった。
トーマス・ジャクソン氏とともに