梶谷真司「邂逅の記録20:ハワイ大学との共同夏季比較思想セミナー報告(11)」
《哲学と国語の融合》
8月14日(火)続き
さて、いよいよP4Cによる英語(国語)の授業の本題に入ろう。
今日は「プラトンの洞窟の比喩」について。ん?英語の授業のはず。やっぱり哲学の授業なのか、と思いきや、これはChadが大学で哲学を専攻して、好きだからそれをテキストに選んでいるだけで、おおむね思想、宗教から教材を取ってきているらしい。教材と言っても、何か決まったテキストがあるわけではなく、そのつどプリントなどで用意しているとのこと。今回はプラトンの洞窟の比喩について説明した数ページのプリントが前もって渡されていたようだが、おそらく読んできていない生徒も少なからずいたと思われる。それも考慮し、まずはこの比喩を説明した人形劇のような3分ほどの映像(そんなのがあるんだ!)を見る。そのあと、私のために一人ひとり自己紹介しつつ、洞窟の比喩について自分の感想を言うことになった。先生がコミュニティボールを一人の学生に投げ、そこから時計回りにボールが受け渡され、順次発言する。私のところに来たので、私も生徒と同じように自己紹介をして、簡単に感想を述べた。生徒のなかには、日本語を勉強している子が数人いて、彼らは日本語で自己紹介をしてくれた。
この段階では、まともに自己紹介しない生徒もいるし、感想もほとんど言わない生徒もいたが、先生は特に何も言わない。P4Cでは発言しない自由もあるらしい(と、JIPEC=子供のための哲学研究所の土屋先生が書いておられた)。生徒の自発性は可能な限り尊重するということなのだろう。自己紹介と感想で一回りすると、次にChadはホワイトボードに1から30まで番号を書き、生徒たちはそこに自分で考えてきた質問を一つ書く。いくつか用意している子もけっこういて、その中で何を書くか考えたり、先生に自分の質問をどう思うか聞いていた。Chadが数字を30まで書いたのは、もともとクラスは29人だからだそうだが、出席をとらないので、その日に25人しかいないことは、私が言うまで気づいていなかった(なんていい加減!)。生徒は好きな番号に書いていいのだが、ブランクも結構あり、質問を書いていない生徒もそこそこいたわけだが、20人くらいは書いていた。
そのあと、先生が全部の質問を読み上げた(コメントは特にしない)。例えばこんな質問があった。
「洞窟のなかにいる人は、自分たちが囚人であることを知っているのか、それともそういう生活が普通だと思っているのか」
「洞窟での生活は、私たちの生き方や物事の見方に影響するのか」
「ずっと暗闇にいた人が光を見たら、どうするのか」
「なぜ洞窟の外にいる人は、中にいる人が実際の世界を見るのを助けようとしないのか」
「真理や現実は、私たちが作り上げているものなのか、探し求めているものなのか、どちらでもないのか」
など。いずれもなかなか面白い問いだ。
一通り読み上げると、今度は、生徒一人につき、議論したい問いを2つ選んで投票させる。質問には誰が書いたのか名前がないので、みんなただ番号を言っていくだけで、それを先生とアシスタントが手分けして、ホワイトボードに線を書いて投票数を記していく。それで結局一番多かったのが次の問いだ。──「自分がもつあらゆる可能性から引き離すような鎖を、人間はどうやって作り出すのか」
うーん、プラトンの洞窟の比喩から、こんな問いが出てくるとは! 哲学を勉強していたら、絶対思いつかないだろう。ちょっと趣旨はズレているかもしれないが、とにかく考え、語り合うためのネタなのだから、そんなことはかまわない。そこで先生が発言を求めると、次々に手が挙がる。そしてここからは、生徒がお互いにコミュニティボールを投げては受け取り、意見を言っていく。他の人の意見を引き継いで自分の意見を言うことはあるが、議論のようなことにはならない。予備知識通り、先生も発言するためには、手を挙げてその時ボールをもっている生徒から投げてもらわないといけない。私もボールを受け取りたかったので手を挙げたら、そのときもっていた生徒──円周のちょうど反対側にいた──が投げてくれて、自分の意見を述べさせてもらった。
授業開始から60分が過ぎたところで突然終了。切りのいいところまでやるということはないようだ。何のまとめもなく、いきなり終わる。ただし宿題として、自分の考えをまとめて次回に提出するという課題が出された。授業では、何かこれを学んだ/教えたというほどのものははっきりせず、あっという間に終わってしまった感がある。しかし、最初に自己紹介と感想を言うときには、ほとんどやる気がなさそうに見えた生徒でも質問は書いていたし、そのあと意見を言っている子も多かった。ずっとただ聴いている子もいたが、クラス全体が非常に穏やかでありながら活気のある雰囲気だった。これがP4Cで非常に重要な「誰でも安心して自分の意見を言うことができる」という「知的な安心感(intellectual safety)」なのだろう。この場を共有していたこと自体が何か重要な学びであったような気がした。それに何より、先生のChad自身がとても楽しそうに授業をやっているのが、見ていて気持ちがよかった。きっと生徒も同じように思っているにちがいない。
後でChadに聞いたら、提出された課題は、表現の良しあし、文法的な間違い、アイデアの良さなどの観点から、総合的に評価し、コメントを付け、直すところは直して返すということだった。なんだ、ちゃんと語学(国語)の授業にもなってるじゃないか。