梶谷真司「邂逅の記録18:ハワイ大学との共同夏季比較思想セミナー報告(9)」
《英語で語り、考えることの意義》
8月13日(月)
午前中のエイムズ先生の授業では、まず中国と西洋の思想の違い、特徴を実体と関係、還元と全体、統一性と多様性、実体間の外的関係と相互連関の内的関係などの言葉で対比した。そのうえで「中庸」とは何かについて論じた。そこでとくに印象に残ったのは、「中庸」をfocusing the familiar affairs of the day、それとの連関で「誠」をCo-Creativity(共-創造性)と訳していることだった。「中庸」のほうは比較的分かりやすいが、「誠」のほうは、最初全く分からなかった。しかし誠とは、字義どうりには「言」によって成しとげるということであり、統合性、関係性という中国思想の基本性格からいえば、人間どうしのつながり、人と自然とのつながりなど、共にあることによって何かを生み出すことになる。しかも異なるものの相互作用からはあらたなものが生まれる。だからCo-Creativityなのだ。この解釈が妥当かどうかはともかく、英語で理解しようとするからこそ、徹底的に漢字の意味を考え、私たちがその本質を理解できるように捉えなければならない。そのようなことは、中途半端に漢字を自分たちのものにしている日本人にはかえって難しく、何となくわかった気で読んでしまう。改めて日本語以外(特に欧米語)で中国や日本のことを考え直すこと、異なる言語圏の人たちと意見を交わすことの重要さを感じた。今日もまた一部の学生たちによるグループプレゼンテーションがあり、中庸と関連する様々な問題──道と人、天と人、情と教、徳、礼、誠──についてまとめ、コメントを述べていた。こうして自らが語り、意見を言うことが、理解を深める。それが正しいかどうかは、そのあとの問題であり、とにかく学生が自ら考え語ることの意義が改めて実感された。
午後は私の授業で、今日は『養生訓』に書かれている病気についての考え方、養生のために必要な具体的な指示──飲食、感情、睡眠、休息など──を読み、その背後にある考え方、前提について考えた。一見もっともに思えることも、まったく違う意味で言われていたり、一見不合理に思われることでも、益軒の思考様式がつかめれば、彼がいかに一貫したことを述べているか判明する。そうして健康や病気、人生についての捉え方が当時と今とではかなり異なっており、むしろ今日は、西洋でも東洋でも近代以降の人間として、比較的近い考え方をしていることが分かる。こうしたことを自覚すれば、自分たちの考え方の大前提や特徴、限界も見えてくる。私自身にとっても、自分がしてきたことを英語で語り、議論することは、研究の面でも生活の面でも、現代人としての考え方・感じ方の面でも、自らを捉えなおし、新たな視点を得るいい機会になっている。