梶谷真司「邂逅の記録17:ハワイ大学との共同夏季比較思想セミナー報告(8)」
《古典の新しさを味わう》
8月10日(金)
午前中の中島先生のレクチャーは、いよいよ本題と言うべき「悪」のテーマに入った。そこで新たに荀子が取り上げられた。彼は孟子から「性」、荘子からは「化」の思想を批判的に受け継ぐ。すなわち、孟子の「性善」を批判し、「性悪」を主張し、荘子の方向なき全面的転換ではなく、礼による性の変化を目指す。その規範となるのが聖人の行為であり、それを実現させるのが、政治の力であるとする。この礼を重視する立場は、歴史性と社会性を意識していることを意味する。それゆえ荀子は規範の複数性を認め、そのうえで異なる規範の調停を考える──悪の問題を考えるのに、人間の本質や普遍的な道徳原理に訴えるのではなく、こうした現実主義に徹するのは、理論的には不徹底だと言われがちだが、個人的にはより有意義だと思うし、魅力的でもある。このような論争が中国の古典でこれほど徹底的に行われていたことが分かり、それをもとに悪の問題をいろんな角度から論じることができたのは、私にとってのみならず、参加者全員にとってとても新鮮であり、有意義であった。古典からまだまだ新しいことが取り出せるのだということを体感した時間であった。
午後は石田先生の授業。今日は、純粋経験については、禅と西田の思想の関係、心の内と外の区別、時間、唯一の実在など、様々な角度から話がなされた。とりわけ関心を持ったのは、禅と西田の思想の関係である。これは複雑で、両者は簡単に結び付けられない。西谷啓治への手紙の一節が資料の一つとして取り上げられていたが、そこで西田自身は、関連を認めてはいるものの、自らの思想が禅の思想として受け取られるのは明確に反対している。純粋経験においては、主客の区別や心の内と外の区別がないとされるが、そのことは禅の体験とどのような関係にあるのか。西田は鈴木大拙と友人関係であったのと、京都学派が禅思想の傾向が強いため、西田の思想は、禅を理論化するものであるように言われるし、自分でもそうなのかと思っていた。しかし石田先生のレクチャーを聞くうちに、両者は直接関係ないのではないかと思えてきた。石田先生の読み方は、いわゆる正統派の解釈を否定するものではないだろうが、今まで知っているのとはずいぶん違っていて、個人的には非常に新鮮だった。
今日で2週目が終わった。学生たちは、授業の後ハイキングにでかけたようだ。週末もこちらの学生と一緒に過ごすようだし、学問的な交流のみならず、個人的にも良き友人となってほしい。そのような関係こそが、次の世代の研究や教育の礎となり、共生の場を広げていくことになるはずだ。