梶谷真司「邂逅の記録16:ハワイ大学との共同夏季比較思想セミナー報告(7)」
《比較から見えてくる新しい地平》
8月8日(水)
前日のエイムズ先生に応答するように、中島先生も今日から老荘思想を──ただし儒家思想との対比において──取り上げ始めた。すなわち、人間の性や情に依拠して倫理を語ろうとする儒家(孟子)に対して、そこから離れたところで語る倫理思想として。そこで言語、感情、規範(礼)、死など、儒家が重視し、努力によって変革ないし習得させようとするものを荘子は否定・拒絶し、存在のあり方全体を転換しようとする。この変化、「化」をどう理解するのか。儒家が特定の方向に向けて人間を変えていこうとするのに対して、荘子はどこに向かって人間を変えるとも言わない。そこに現れるのは倫理なき世界なのか、それともまったく異なる倫理の世界なのか。倫理的な言説は、とかく基礎づけに終始しがちで、物事の見方そのものを大きく変えたり広げたりしない。しかし荘子というユニークでラディカルな思想家の助けを借りて、新たな思考の可能性、倫理の可能性が開かれるかもしれない。そんなことを考えさせられる授業であった。
午後は石田先生の授業だったが、彼もまた老荘思想との関連で西田の思想を論じた。西田の純粋経験と『老子』の冒頭で言われる「道(Dao)」、エイムズ先生と中島先生が扱った『荘子』の「夢に胡蝶となる」における存在の転化を取り上げ、西田の純粋経験と共通する部分、相違する部分について議論した。さらには、真言宗の空海や臨済宗の沢庵宗彭における悟りの経験とも比較することで、純粋経験を様々な角度から捉えようとした。思うに、純粋経験のように、言語以前の状態を語ろうとすれば、それ自体と適切に表現するのは難しい。そういうときに「比較」という方法は、本質的に共通していることや、似て非なる部分を理解させてくれる。
8月9日(木)
午前中の私の授業では、いよいよ貝原益軒の『養生訓』を取り上げた。まず最初の一節、自分の命も体も自分のものではなく、父母のもの、天地のものだという基本思想について、それがシンプルでありながら、実際には非常に理解しにくいことを指摘した。とりわけ現代のように命そのものが重要視され、自分の体も命も何より自分のものであることが当たり前だと考える私たちにとって、このような養生思想を理解するがいかに難しいか、また翻って体や命を自分のものだと考えることはなぜなのかなどを議論した。そしてそこから、社会的使命を果たしたり、道徳的であることと養生がなぜ結び付くのかを皆で考えた。
午後のエイムズ先生の授業では、荘子の言う「真人」が聖人や君子とどう違うのか、そこに天人感応がどう関わるのかについて考えた後、このセミナーで初のグループワークの発表があった。荘子の有名な「魚の楽しみ」の一節について桑子敏雄、彭鋒、中島先生、エイムズ先生、Chad Hansenの解釈をそれぞれのグループがまとめ、コメントをしたり、中島先生やエイムズ先生に質問をした。「魚の気持ちは分かるか」という単純と言えば単純な問題だが、解釈のヴァリエーションの広さに興味をひかれた。