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【報告】東京大学−ハワイ大学夏季比較思想セミナー(6)

2012.09.14 梶谷真司, 中島隆博, 文景楠, 高山花子, 神戸和佳子, 崎濱紗奈, 芮雪, 川瀬和也, 田村未希, 東西哲学の対話的実践

このブログでの報告も、残すところあと2回となりました。今回は、8月13日、14日、15日の3日間の様子をお伝えします。

8/13

午前はエイムズ先生の第6講義。今回は、『中庸』に関する内容だった。『中庸』は『大学』『論語』『孟子』と並んで四書の一つに数えられ、儒家の立場からの道家思想への応答という側面を強く持った書物だ。今回の講義では、受講者3人ずつの二つのグループに課題が与えられ、それについて発表する時間が設けられていた。課題は両グループとも、『中庸』の一節を解釈せよ、というもの。第一グループでは、UTCP研究協力者の崎濱紗奈さんが、他の受講生二人とともに発表した。そして第二グループでは、私川瀬も、他の受講生二人とともに、『中庸』の中のある文章の解釈について発表した。英語での発表には難しさもあったが、貴重な経験であった。

午後は梶谷先生の第5講義。『養生訓』に登場する、具体的な養生の方法に踏み込む講義であった。講義ではまず、病気の原因に「内欲」、つまり生活習慣や感情の動きと、「外邪」、つまり気候のような外的な要因の二種類があるとされていること、そして中でも「内欲」のコントロールが重視されていることが指摘された。「内欲」のコントロールは、人間の生命の源である「元気」を減少させないようにすることと、滞らせないようにすることの二つを基本として考えられている。この点で、必ずしも現代の考え方とは一致していない。例えば食事に関しては、少しの量を何度にも分けて食べ、空腹にも満腹にもならないようにすることが大事だとされる。そのほか、睡眠は気を滞らせるので極力減らすべきであること(!)、喋りすぎると元気が流失するので良くないこと、等々が『養生訓』には書かれている。講義中、これらの現代とは大きく異なる考え方への驚きとともに、活発な議論が交わされた。

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〈第一グループの発表の様子〉

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〈第二グループの発表の様子〉

8/14

午前は石田先生の第6講義。前回に引き続き、西田幾多郎の『善の研究』に関する内容だ。今回のキーワードは、「統覚」「社会的意識」そして「善」の三つ。まず、西田は「意志」、「思惟」、「想像」の人間の三つの能力は、すべて観念を統一する作用であり、この意味で同じ「統覚作用」だと述べている。ここには、我々の思考の内容は単なる混沌ではありえず、なんらかの意味で整合性を保たねばならない、という発想がある。次に西田は、これを「社会的意識」の統一に結びつける。たしかに、我々の社会も、ある意味で統一をなしており、この点で意識の統一に似ている、という程度の主張は、誰にとっても受け入れやすい。しかし西田はここからさらに、われわれが意識を所有しているなどということはないのだ、そもそも独立の意識などというものはなく、個人的意識は社会的意識の構成要素に過ぎないのだ、と議論を進めてしまう。このあたりの議論には、全体主義的な政治思想につながるとの謗りを免れ得ないと感じた。西田は「統一作用」としての理性を「善」に結びつける。「何でも理に従うのが人間の善であるということになる」という、『善の研究』の中の西田の言葉は、統一さえあればそれが善であるという強すぎる主張をしているかのような印象を与えるが、統一と善との間に何らかの関連があるという指摘は鋭いものだと言えるだろう。もし善があるとすれば、何が善であるのかについて、矛盾があってはならないはずだ。この意味で、善には整合性が、つまり「理に従う」ことが必要である。この洞察を、全体主義に陥る危険から救うことが、西田の哲学を現代に活かす鍵なのではないかと感じた。

午後は、中島先生の第6講義。
前回の講義で、筍子が「礼」は歴史的に構成されているものだということに気づき、それを際立たせたことが論じられたが、最終講義である今回は、この歴史性という視点が、論語以来の中国思想に通底するものであったことが論じられた。私は、今日の中島先生の講義を聴講するまで、「周公」の礼に常に依拠しようとする孔子の礼は、固定的で、歴史性を持たないものなのではないかと考えていたため、講義中にもこの点を質問した。しかし、中島先生のお答えは、孔子にとって周公の礼はまさに彼の時代なりの歴史を背負って選択されたものだったのであり、天下り式に与えられた、超越的な規範ではなかったのだ、というものだった。この議論はとても説得的で、私にとって、孔子のみならず、中国思想全体に関する私の捉え方を大きく変える興味深いものだった。

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8/15

午前はエイムズ先生の第7講義。奇しくも日本では「終戦記念日」(ここハワイで、日・米・中・韓の参加者が集うセミナーに参加していると、今日がアメリカや中国から見れば戦勝記念日であり、韓国では「光復節」つまり解放記念日であるという、日本国内にいると、ともすると忘れられかねない事実を痛感させられる)にあたる今日の講義は、戦闘が続いていた中国古代の歴史状況に照らして、当時の兵法に関する議論から哲学的含意を導く、という内容だった。中心的な論点は、戦争における「力」と「勢」の区別であった。「力」とは兵の数のような、物理的に確定できる武力であるのに対し、「勢」は他のすべての状況に鑑みた、時局にかなった「強さ」を表す。エイムズ先生は、「勢」において優位に立つことで、実際の戦闘に陥ることなく、優位を保って政治を行うことができる、という兵法の思想を「道徳経」の一節の解釈から導き、ここにも全体の関係的な状況を重視する中国思想の特長が現れている、という議論を展開されていた。しかし、実際の戦闘によらずに優位に立つという兵法は、冷戦時の核兵器開発合戦を思い起こさせる思想でもある。この思想をどのように受け止めるかということが、現代の我々に残された課題なのかもしれない。

午後は梶谷先生の第6講義。前回までの「養生訓」の議論を踏まえて、西洋医学においてしばしば論じられる近代的「二元論」と、前近代の「全体論」の対立について考えるという内容だった。ここで対比されているのは形而上学的な立場としての「心身二元論」ではなく、方法論としての「要素還元主義」、つまり身体をパーツに分けて、たとえば胃なら胃だけを見て診断を下してしまうというやり方と結びついた身体論と、ヒポクラテスに起源が求められ、ガレノスの体液論などへと流れこむ、身体を全体として捉える方法論としての全体論であったように思う。この対立を念頭におくとき、貝原益軒の「気」一元論は、どちらかというとヒポクラテスに近い。しかし、ポクラテス的な「全体論」はせいぜい身体の全体を見ることを要求しているのに対して、「気」は精神的なものでもあり、また天地の全体に関わるものでもある。この点に「気」の特異さがある。この講義を受けて私が考えたのは、「気」の思想とは、実は一元論ではなく、多元論なのではないかということだった。一元論それ自体は、身体を機械として扱うことを排除するものではない。これは、すべてを機械として取り扱う唯物論が一元論の一種であることを考えれば明らかだ。そして、気の思想において、天の気、地の気、そして養生の源となる「元気」等々は、すべて「気」と言われているが、それらは相互に連関しあう様々な要素なのであって、それらを統一する原理としての「気」そのものの存在が想定されているか否かははっきりしない。むしろ気の思想が統一を前提しない多元論だからこそ、そこに西洋近代とは違う身体観、宇宙観を見出すことも可能になるのではないかと思う。

(報告:川瀬和也)

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