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【報告】東京大学−ハワイ大学夏季比較思想セミナー(4)

2012.09.06 梶谷真司, 中島隆博, 文景楠, 高山花子, 神戸和佳子, 崎濱紗奈, 芮雪, 川瀬和也, 田村未希, 東西哲学の対話的実践

長いと思っていた3週間のセミナーですが、早くも折り返し地点となりました。8月7日(火)、8日(水)の様子をご報告します。

8月7日(火)

午前、梶谷先生の授業(第3回)。これまでの授業では、医療や健康といった領域の中で、理論と実践・心と体などの諸関係が、それぞれどのように現れるかを考えてきた。特に哲学を専攻する参加者たちは(私も含めて)、哲学という学問分野の中でこれらの問題がどのように扱われてきたのかについては、ある程度の知識と見取り図を持っていたと思う。しかし、実際の医療という場にその問題を置きなおしたとき、また自分や家族が体調を崩したときの体験をもとに考え直してみたとき、その関係は思った以上に複雑で、一筋縄にはいかないことが感じられる。これまでの2回の講義とディスカッションを通じて、参加者の頭の中は大いに揺さぶられていた。

そんな中でいよいよ今回から、江戸時代の病や医療をめぐる状況と、貝原益軒による議論に、具体的に踏み込んでいくこととなった。

今回の授業では、益軒が生きた江戸時代(特に中〜後期)に、人々が、病をどのようなものとして捉え、対処し、付き合っていこうとしたのかを考えていった。素材となったのは、当時の絵馬やビラなどの画像資料である。

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<どこか滑稽な流行病の神様たち>


病をおそれ平癒を祈る気持ちは、いまも昔も変わらない。健康管理に留意して、体によいものを食べ、医者と薬に頼り、神頼みをする。これもいまと同じだ。でも当時の人々は、病の神を憎むのではなく祀ることで病を昇華させようとし、また深刻で悲惨な流行病を、戯画にすることでコミカルに親しく扱った。そのような「明るい」態度に、いまの我々は少しの違和感を覚える。なぜ彼らはそう振る舞ったのか?彼らにとって、病気になるとはどのようなことだったのか?

7月の準備会で扱った「現実」の問題に、私たちは再び直面させられることとなった。江戸の人々にとっての病と私たちにとっての病の、ほんの少しの違いに、私たちの常識や現実がまた揺さぶられたのだった。


午後、エイムズ先生の授業(第4回)。前回までは儒教の思想、とりわけ孟子について扱われたが、今回からは道教の思想、とりわけ荘子に着目していくこととなった。

今回の大事件は、なんといっても、エイムズ先生から大きな「宿題」が出されたことである。参加者が任意に5グループに分けられ、荘子の「魚の楽しみ(を人がみてとることは可能か?という問題)」についての様々な論文を、それぞれが1本ずつ担当するよう指示された。翌々日までにグループで担当の論文を読み、ポイントをまとめて、授業で発表しなければならない。突然、日本語の論文を読まなければならなくなったハワイ大の学生もいれば、骨のある英語論文を前に頭を抱える東大の学生もいる。また、参加者同士かなり親睦を深めてきたとはいえ、やはり言語の障壁は大きく、アカデミックな話題で議論を十分に行うのは、お互いにまだまだ大変な状況だ。

そんな中てんやわんやで準備されたプレゼンテーションは、しかしとてもエキサイティングで、このサマーセミナーでもっとも印象深い出来事のひとつとなった。その報告は次回担当者に譲るので、ぜひ楽しみにご覧いただきたい。

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<帰り際にもディスカッション>


8月8日(水)

午前、中島先生の講義(第4回)。「エイムズ先生の講義への脚注として」と始められた今回の講義は、やはり荘子についてのものであった。例の宿題に取り組む上でも、この講義で荘子についての理解を深められたことは、非常に有益だった。

ただ、荘子について理解が増すことは混乱が増すことでもあった。物化というような世界も自分も全く変わってしまうような変化や、天にのっとるというような完全なる肯定と解放は、あまりに恐ろしい発想であるように感じられた。人(人為)の領域を確保したとされる荀子を早く読みたいと思わされたのは、あるいは中島先生の筋書き通りであっただろうか。


午後、石田先生の講義(第4回)。「純粋経験」についてずっと考えてきたわけだが、回を追うごとに難しくなっていく印象は否めない。少しつかめたかな、と思ったとたん、また別の論点があらわれ、するりと逃げられてしまう。

今回は時間の観点が導入され、純粋経験と時間の関係や、私の時間と他者の時間の関係を、西田の記述に基づいてどのように考えられるかが検討された。

箇所によって意味や表情を様々に変える西田のテクストを前にすると、それを整合的に読むことをあきらめたり、詩的で神秘的な表現として味わうにとどめ、哲学のテクストとしては軽視したり、といった態度に陥りがちになる。しかしそこをぐっと我慢して、石田先生の「西田は整合的かつ明晰に論じている」という言葉を信じ、先生の案内に頼って格闘していく。とにかく我慢、忍耐というのが、このセミナー半ばの時点での、参加者みなの心持ちであったかもしれない。
 

セミナーも半ばにさしかかり、どの授業もいよいよ佳境だ。

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※次回の報告は、中国からの参加者の芮雪さんが、英語でお届けします。右上のボタンで言語を切り替えてご覧下さい。

(報告:神戸和佳子)

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