梶谷真司「邂逅の記録12:ハワイ大学との共同夏季比較思想セミナー報告(3)」
《近代アジアの思想というフィールド》
7月31日(火)
二日目は午前のセッションが中島先生、午後は石田先生だった。
中島先生は、昨年の3.11の東日本大震災とそれに続く原発事故に、アジアの思想はどのように応答できるか、というアクチュアルな問題設定から話を始めた。そして近代の日本と中国の思想家が科学技術との共存を、人格性の概念との関連でどのように考えたかが主なテーマとなった。取り上げられた思想家は、中国から新儒家の徐復観、日本からは京都学派の西谷啓治である。
原子力時代を生きた多くの思想家と同様、二人もまた核兵器という人類を全滅させる力を生み出した科学技術と人間がどのように共存可能なのかという難問に直面した。そしてその成立の基盤となった西洋近代の人間観を、アジアの思想伝統に根差す、新たな人間観によって乗り越えようとする。そこで徐復観は、儒教的な調和的共同性の回復を唱える。他方西谷は、人間の生の根底にある絶対無の境地に至ることで、人間中心の立場から超人格的(transpersonal)な真なる自己を確立しようとする。二人に共通しているのは、西洋キリスト教の超越者=神とそれに支えられた、いわば垂直的な人格性を批判し、むしろ人間自身のレベルで基礎づけられる、いわば水平的な人格性を構想したことにある。こうした説明の後、この二つの新たな“東洋的な”人格性の概念をめぐって、その違い、それが科学技術の暴走を食い止め、共存を可能にするのに、どれくらい有効なのかについて、参加者との間で活発な議論がなされた。
昼食をはさんで、午後のセッションは、石田先生による西田幾多郎の『善の研究』についての講義であった。まず西田自身と京都学派について簡単なイントロダクションをして、そのあと、冒頭の最初の文「経験するというのは事実其儘に知るの意である」で問題になっている「純粋経験」について集中的に説明がなされた。純粋経験は、言語的判断によって限定、抽象化される以前、あらゆる判断の源泉となるまったき全体性であることを、『善の研究』の関連する個所を読解しつつ、様々な角度から解説してくださった。一歩一歩話が進むごとに、参加者に質問の機会があった。経験とは何か、言語や判断、概念はそこにどう関わるのか、主観-客観関係、経験主体である自己と経験の関係はいかにとらえるべきか、純粋とはどういう意味か、想起や時間性、歴史性との関連はどうなっているのかなど、いろんな質問が出て、それによってさらに理解が深まった。短い一節であっても、そこに込められた西田の根本概念の複雑さと広がりが示され、哲学のテキストを緻密に読んでいく難しさと面白さも、多くの参加者に伝わったのではないだろうか。
全体として二人とも、非常に教育的配慮が行き届いた講義で、個人的にも参考になった。学生たちも、次第に質問するのに慣れてきて、東大から来た学生の存在感も増してきた。もっともっと議論できるように成長してほしい。
午後には小林先生も合流し、夜は学生たちと、中島先生、石田先生とワイキキで一緒に夕食をとった。学生たちと教員がゆっくり話をする初めての機会でもあり、お互いの思いや考えを伝えあい、とても楽しい時間であった。