東京大学-ハワイ大学夏季比較哲学セミナ―準備会(4)
2012年7月15日、比較哲学セミナー第四回準備会が東京大学駒場キャンパスにて行われた。今回は、中島隆博先生の新著『悪の哲学――中国哲学の想像力』(筑摩書房、2012年)を導きとして、セミナー参加予定者の内5名が前回同様英語によるディスカッションを進めた。
本書に貫かれているのは、「悪」とりわけ「社会的な悪」に対してどのように向き合い思考するか、という強烈な問題意識である。個人の道徳に還元し得ないような「社会的な悪」――たとえばフクシマをもたらした巨悪――についていかに思考し、それを少しでも改善する方途をいかに模索するのか。もちろん、書名にあるように本書は「中国哲学」を論じたものであるし、中島氏自身が語るように、中島氏の中国哲学史観の表明と見ることもできる。しかし、本書が目的としたのは中国哲学そのものの独自性や特異性を語ることでは決してなく、あくまで、「悪」という普遍的な問題について考えることであり、「悪」に関する思考実験を絶え間なく継続してきたという意味において「中国哲学の想像力」に可能性を見出そうとしたのが本書の意義であると言えるだろう。それゆえ、中国哲学に関しては全く門外漢の我々も、中島氏の豊かな叙述に導かれながら、中国古代から清代に至るまでの「悪」を巡る哲学的格闘を理解し、それに対する著者の問題意識を共有することができた。
とはいえ、本書が扱う「悪」の問題がきわめて巨大かつ解決し難い問題であることには変わりない。何が一体、具体的に「悪」と呼び得るようなものなのか。また、仮にある特定の事柄を「悪」と認めたとしても、その先に「少しでもましな」未来をいかに描くのかという新たな問題に直面したとき、我々は余りにも無力である。本書を通読した感想として参加者から寄せられたのは、まさにこの無力さをいかに打破して行けばよいのだろうかという困惑であった。「想像力」という言葉が本書のキーワードにある。ここで言う「想像力」とは、想定できないような出来事や在り様を、それでもなお想像するような思考的脚力のことである。3.11のような想像もできないような惨事が起ってしまった後に生きる我々は、この「想像力」がいかに必要とされているかを痛感している。「悪」はあまりにも日常にありふれており、いちいち考えるのも面倒なものになってしまっていはしないか。「悪」に対して目をつぶり背けることで、一人一人が知らず知らずのうちに「悪」に加担してしまっているのではないか。想像できないような「悪」を、それでもなお想像し続け、なおかつそれに対抗する方途を模索すること、これこそが今求められていることなのではないか。
もし人文科学に何か可能性がまだ残されているとしたら、それは、まさに「想像力」を担うことをおいて外に無いだろう。「今こそ学ぶべき」という中島氏の言葉が重く心にのしかかる。何を想像するのか。どのような未来を描くのか。この途方もなく大きな問いについて、世界各地から集まる学生たちと、ハワイにて議論を更に深めたいと思う。
(報告:崎濱紗奈)