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【報告】グローバルCOE・UTCPファイナルシンポジウム2012「カタストロフィーと共生の哲学」

2012.04.13 小林康夫, 佐藤朋子, 中澤栄輔, 池田喬, 西山達也, 阿部尚史, 高榮蘭, 森田團, 西山雄二, 小口峰樹, 大橋完太郎

 2012年3月5日、グローバルCOEとしてのUTCPを総括する若手研究者の集いを開催しました。題して、ファイナルシンポジウム2012「カタストロフィーと共生の哲学」です。

 グローバルCOEプログラムとしてのUTCPは2007年の発足以来、人文学の領域横断的な国際交流によって、人類の未来を根底的に理解するための共通の地平、すなわち、来たるべき「共生」理念を探究してきました。UTCPの特色のひとつは、海外の研究者との交流、外国語での論文執筆支援、国際会議の企画・運営・参加といった点で若手研究者の活動を積極的に支援するところにあります。実際、数多くの若手研究者がUTCPで研究を大いに発展させており、大学教員として教壇に立っている方々も少なくありません。
 平成19年度採択のグローバルCOEプログラムは2012年3月で終了しましたので、この節目にUTCPの若手を中心としてシンポジウムを開催しました。UTCPは2012年4月に総合文化研究科附属共生のための国際哲学研究センターとして生まれ変わりましたから、このシンポジウムは活動の終幕ではなく、UTCPの新たな展開に向けた若手研究者の結集という位置づけです。21世紀COEおよびグローバルCOEの成果を次世代のUTCPへ橋渡しをし、UTCPが取り組んできたテーマ、UTCPという研究空間のあり方を考えるというのがこのシンポジウムの目的でした。
 21世紀COE期、グローバルCOE期を併せると、UTCPには10年間で118名の若手研究者が在籍しました。さらに、緊密に研究協力をさせていただいた方々をそこに加えさせていただければ、じつに150名以上の哲学・思想関係の研究者がUTCPに集い、交流しつつ、研究を行ってきたということになります。今後、こうして培われた研究者ネットワークを更に育んでいって、哲学・思想研究のための風通しのよい場として発展させていければと願っています。

★第1部★
 今回のシンポジウムは3部構成としました。第1部はカタストロフィーを多角的に考察するパート、佐藤朋子さん(UTCP)が「喪失と象徴化―3.11後の喪の作業を考える」、荒川徹さん(UTCP)が「《砂の女》の哲学」、中澤栄輔(UTCP)が「技術と倫理、責任と後悔」、池田喬さん(UTCP)が「当事者でも非当事者でもなく──〈3.11〉と哲学」。以上のようなタイトルでそれぞれ提題しました。佐藤さんと池田さんからコメントを貰いましたので、以下に掲載します。(これまで中澤栄輔)

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【佐藤朋子さん(UTCP)の報告】
 「喪失と象徴化──3.11後の喪の作業を考える」と題した発表で、(後期の)フロイトの「喪の作業 die Trauerarbeit」の観点を3.11後の言説的状況のなかに導入することを試みました。
 「喪の作業」は、対象を失ったあとに一定期間続く、悲しみの感情として主体に知られる心的な諸変化を云います。フロイトはこの観点を1915年に呈示したのち、1925年に再定式化しました。身体的な痛みと心的な痛みの両方に応用しうる「痛み」の理論的表象の錬成に基づくその再定式化を経た観点からは、対象喪失において痛みが証言しうる「物質的真理」の問いを、また、もろもろの喪の作業のうちに多かれ少なかれ働く(痛みを快とする)マゾヒズム的傾向の問題を立てることが可能になります。
 喪の作業の問いは、何かを経験し、何かの後に生きようとするところで提起されます。それでは、3.11後に私たちが生きている、と言うとき、その「私たち」は何を生き延びようとしているのでしょうか。現在、生き延びとその仕方をめぐってさまざまな言説が展開し、そのいくつかは原発事故“後”を論じています。この状況において批判的態度を維持しつつ語ってゆくために、「私たち」や「何」の象徴化にかかわるナルシシズム的な傷──そのいくつかは3.11以前に遡るように思われます──やマゾヒズムを問うことは重要でしょう。
 記念行事という性格ももつシンポジウムでしたが、普段と変わらぬ真摯な議論が終始交わされていたのが印象的でした。本発表につきましても、論じられている「痛み」が痛そうでないという指摘を含め、含蓄のある質問や意見をいくつもいただきましたことを深く感謝しております。(佐藤朋子・UTCP)

【池田喬さん(UTCP)の報告】
 「哲学に何ができるか、といえば、何もできない」。「〈3.11〉と哲学」をテーマとする会合でしばしば耳にするこの発言が心に引っかかっていた。〈3.11〉の後もなお「何もできない」という〈無力〉な主体、この「行為」を奪われた〈非/主体〉としての「哲学」とは何なのか、と。
 哲学は常にためらいとわりきれなさの中で口を重くして思考している。ためらいが、「行為」の一義的な決定と実行を「できなく」している、という意味で、思考中の〈非/主体〉であること。このあり方を、人の「迷う権利」として擁護することが、無力な哲学に(こそ)「できる」ことではないか。心情論ではない。例えば、原発事故後、避難するか否かをめぐって選択に迷う、あるいは、避難したがまた戻る、といった流動的生活がある。そこに含まれる、ためらいとわりきれなさ──それはまったく不合理ではない──が、政治的論議において平板化されたり、賠償において不利益をもたらしたりする結果を生んではならない。
 ごく一部の抜粋にすぎないが、ファイナルシンポジウムではこのような論点に触れた。発表後、「権利」という語をめぐって小林康夫先生から質問があり、西山雄二さんからデリダの「Du droit à la philosophie」に即した話題提供があった。「哲学への権利について/権利から哲学へ」という問題性は、私がUTCPから学んだ一番大切なものだ。最後のイベントで自分の考えとこの問題性がリンクしてよかった。今後につなげていきましょう。(池田喬・UTCP)

★第2部★
 第2部はカタストロフィーを哲学的議論として深化させていくパートです。大橋完太郎さん(神戸女学院大学)が「「非人間の哲学」序説」、西山達也さん(UTCP)が「共生のための忘却とダンス──『アンティゴネー』のコロスより」、森田團さん(西南学院大学)が「カタストロフと悲劇──ベンヤミンの「歴史の天使」」。このパートは中期教育プログラムの「時代と無意識」プログラムの総括という意味合いもありました。

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【西山達也さん(UTCP)の報告】
 マルティン・ハイデガーは20世紀を代表するカタストロフィーの哲学者として知られている。とりわけ『存在と時間』を構想しつつあった時期(1度目の世界戦争の直後)のハイデガーは、カタストロフィーの「経験されざる経験」を思考すべく、世界性の概念を洗練させていった。この過程で、ハイデガーは一方で初期キリスト教の終末論と、他方でアリストテレスの目的論を交叉的に参照するのだが、本発表は、世界の世界性を主題化するにあたって、この哲学者が「悲劇的なもの」の時間性を参照することが必須であったとの仮説を提示した。実際ハイデガーは最初期の講義「哲学の理念と世界観問題」(1919年)の決定的な箇所で、Es weltet(世界が開かれる)という定式を提示し、その直後にソポクレスの悲劇『アンティゴネー』の合唱歌を引用する。本発表は、この何気ない引用の意義を検討し、また、引用された合唱歌のなかで歌われる「忘却とダンス」の役割について考察した。理論的考察の遂行とテクストの読解の実践とは、つねに表裏一体の作業であるべきだが、これはしばしば両立させることの困難な課題でもある。私自身は、「翻訳と歴史」をテーマとした研究をUTCPで継続するなかで、哲学的思考と文献学研究(言語性ないし地域性へのこだわり)との間でみずからの選択を宙づりにしてきたが、最終的には、この宙づりそのものを選び取る覚悟と開きなおりを学ぶことができた。おそらくこの宙づりの技法が、私にとっての共生のための哲学のディシプリンであるように思われる。(西山達也・UTCP)

★第3部★
 第3部は共生の哲学をテーマにしたパートです。高榮蘭さん(日本大学)が「情動の言語化をめぐる政治学―2011・メディア媒体とフィクションの駆引きから」、阿部尚史さん(日本学術振興会)が「イスラームの論理と共生の理念―価値観の共有をめぐって」、小口峰樹さん(玉川大学)が「脳科学と心の哲学―哲学と科学の「共生」を考える」、西山雄二さん(首都大学東京)が「人文学と共同研究」、以上のような提題を行いました。

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【阿部尚史さん(日本学術振興会)の報告】
 報告者は、「イスラームの論理と共生の理念──価値観の共有をめぐって」と題して、発表を行った。ここでは、ごく最近の中東情勢を概観した上で、欧米におけるIslamophobiaの現象をまず取り上げた。その上で、イスラームが優位な国においては信教の自由が著しく制限されていることを、各国ごとに個別具体的な事例をもとにして説明した。中東諸国においては、イスラームが社会の基盤としてあり、イスラームがいまだに生々しく一神教としての自己優位性を保持している一方で、宗教の私事化や信教の自由、個人意思の尊重といった考えを受け入れている人々も存在している。したがってこうした価値観を一方的に「西洋的」とレッテル張りすることが必ずしも有効ではないことを指摘した。その上で、池内恵が述べるように欧米的なリベラリズムの思想を鍛えて外からイスラームとの対話の道を模索するほか、中村廣治郎が指摘するようにイスラーム内部のテキストを厳密に考証することから、これまでの多数派の論理の教条的な側面に再考を促して、共生を模索する必要があることを述べた。特に前者の作業には、西洋思想研究者の協力が不可欠であることを強く指摘しておきたい。
 質疑においては、カトリックとの比較や科学教育と一神教的世界観の関係性について議論があり、今後より考察を深める重要な指摘を頂いた。
 今回のシンポジウムは非常に多彩な内容の発表が用意されており、様々な議論も交わされた。その中で、報告者が提供した発表がどれだけシンポジウムに寄与したのかという点については心もとなく、反省点も多い。しかし、UTCPの最後のシンポジウムで自分の専門から少し離れたところで議論を提起し、みなさんと時間を共有できたことは大変貴重な経験であった。今後もUTCPを通じて得た交流関係を維持して、学問的な刺激を受け続けたいと思う。

【西山雄二さん(首都大学東京)の報告】・・・でこのシンポジウムのまとめとします。
 拙発表「人文学と共同研究」では、まず、桑原武夫「人文科学における共同研究」(1968年)と梅棹忠夫「研究経営論」(1989年)を参照し、京都大学人文科学研究所と国立民族博物館の共同研究の理念と実例からいくつかの論点を抽出した。
 (1)共同研究を試みるに際して「慎重の態度は学問の敵」である。「ともかく共同研究を始めてしまった。始めておいてから考えたんですけれども、それは可能である、可能としなければならない」というつねに現在完了形の冒険的態度が必要となる。(2)「ディシプリン」に「学問分野」と「訓練」という意味があるならば、「インターディシプリン」は「学際性」であり「共通の訓練」である。同じテクストに皆で迫ることで、共通の訓練を積む会読は有効だ。(3)年配教師と若手のあいだで対等感を養うことも欠かせない。余暇に「日本映画を見る会」「小説を読む会」を開催することで、若手の方が優位に立てる機会を与えるとよい。(4)共同メンバーのあいだで知識の共有財産化は重要だ。当時、カード・システムが圧用され、重要な事実や文言をカードに記入し、参加者と事務室で保管されていた。
 上記の論点をUTCPの活動に当てはめて分析してみよう。(1)数多くの国内・国際的な研究教育活動を継続してきたUTCPは、他者(研究者や研究教育機関、一般聴衆)からの呼びかけに応答しつつ、継続されるワーク・イン・プログレスそのものである。その過程で人文学が要請する孤独と友愛の情動が湧き上がってくるのだろう。「哲学とは、哲学者が尺度なしに単独で概念を創造すること」であり、「概念を通じた哲学者の呼びかけであり、同時に、他の哲学者の呼びかけに対する応答」である。「哲学者との邂逅が望外の喜びであること、そしてその喜びこそが哲学を可能にしている」(中島隆博『哲学』)。
 (2)UTCPにおいて「インターディシプリン」とは、知の異なる現場や人材を連関させる実践を指すのだろう。単行書の出版、雑誌の企画、学会や研究会、展覧会と連動し、書店員や精神分析家などと交流することで、研究教育に現場性が回復されるのだ。(3)UTCPは数多くの若手人材を育成した点で、ポスト・ドクターのシェルターでも難民キャンプでもなかった。教員と若手が柔軟に連携できるように、教員による中期教育プログラムと若手による自発的な短期教育プログラム、つまり制度的構造と運動的要素が階層的に連動している。(4)UTCPほどWebサイトを活用している学術団体はめずらしい。活動は完全情報公開され、ブログ記事では拠点リーダーがもっとも多く登場する。「UTCPはWebサイト上に存在する」(平倉圭)のである。
 知性を継承する責任をいかに果たすべきか。通常、継承されるのは人物や作品や思想だろう。しかし、知性が集合的に交流し成長する「制度を継承すること」も必要だ。この重要性をUTCPから学んだし、自分のできる範囲で制度的な実験を試みたい。

 このシンポジウムを締めくくる小林康夫氏の言葉を、UTCPへの、若手研究者への、印象的な旅立ちの合図として聞きとってもよいだろう──「UTCPは通常の意味での共同研究の場ではない。各人が書くことを通じて深い孤独を極める場所。だが同時に、みなさんはさらに若い方を巻き込む共同的な活動をしてほしい。二つの矛盾した要請を果たそうとしなければ、みなさんはUTCPにいた意味がないとさえ思う。」

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関連するUTCPイベント

グローバルCOE・UTCPファイナルシンポジウム2012「カタストロフィーと共生の哲学」

2012年3月5日(月)10:00-18:00
東京大学駒場キャンパス18号館1階ホール

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