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【報告】エリーズ・ドムナク講演会「映画における懐疑主義の表現」

2012.03.16 佐藤朋子, 森元庸介, セミナー・講演会

 2011年10月28日、リヨン高等師範学校准教授のエリーズ・ドムナク氏をお迎えして、「映画における懐疑主義の表現」について講演していただいた。

 映画研究と美学を専門とするドムナク氏は、映画批評誌『ポジティフ』や雑誌『エスプリ』 などで批評家としてもご活躍なさっている。お聞きしたところによると、今回は第24回東京映画祭の開催に合わせてご来日の日程を組まれたとのことであった。


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ドムナク氏と、司会を務めたUTCP共同研究員の森元庸介さん


 氏は今回の講演でスタンリー・カヴェルの哲学をとりあげ、この哲学者の初期の著作(Must We Mean What We Say? (1969)、The World Viewed, Reflections on the Ontology of Film (1971)、また、フランス語で編纂・出版されたエセー集 Qu’est-ce que la philosophie américaine ? 所収のテクストなど)を中心にしつつ後期の著作(Pursuits of Happiness: The Hollywood Comedy of Remarriageなど)も視野を入れながら論じた。氏によれば、ご自身の方法論上の源泉は、フランスの高等師範学校で受けた歴史的文脈を重視する哲学史の教育と、アメリカのハーヴァード大学およびUCバークレー校での研究生活を通じて学んだ概念そのものを問題化する姿勢との2つにあるという。今回の講演でも氏はその2つをバランスよく組み合わせたアプローチによって、カヴェルの仕事の概要とその特異な点とを平明に解説しつつ、「懐疑主義が映画において表現される」という考えをその哲学のうちに浮き彫りにした。

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 ドムナク氏がカヴェルの仕事について強調したのは、日常言語の哲学の方法を介しての美学の変容と、懐疑主義の問題の再解釈という2点である。カヴェルはウィトゲンシュタインの『哲学探究』を読みながら、一方で、日常言語に即応した問題意識を引き受ける。哲学は、伝統的に、テクストという媒介において歩を進める思考として行われてきたが、他の媒介、たとえば映画において歩を進める思考もありうる。 換言するならば、哲学的活動の中心に読解という活動があるとして、それは、テクスト読解という形でも映画の読解という形でもみいだされる活動だということである。さて、これまで哲学は日常の実際的な問題をカムフラージュし、知的な謎へと変容させつづけてきた。しかるに、(日常的に経験されるものとしての)映画は、それ固有の表現手段によって我々を「教育する」ことができ、哲学が避けてきたものに我々を直面させることができるのである。他方で、カヴェルは「懐疑主義」の新たな位置づけに乗り出す。すなわち、彼にとって「懐疑主義」は、それまで考えられてきたところとは異なり、超克されたり解消されたりすべきものではなく、なによりもまず認められるべきものである。世界の存在について、我々の個人的なアイデンティティについて、他者たちへの私たちの接近について我々が抱く疑念。ここにみられる「懐疑主義」こそ、カヴェルにとって、哲学的営為としての読解を通じてそれとして認められるもろもろの問題のなかで最重要の問題であった。そして、映画の読解はそこで特権的な役割を担うのである。


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 講演の最後にドムナク氏はそれまでの議論を例証するべく、いくつかの映画の抜粋を映写した。『フィラデルフィア物語』の冒頭、ケーリー・グラント扮するデクスターとキャサリーン・ヘプバーンが演じるトレイシーが口論する場面、『天国の日々』の冒頭、広大な麦畑に3人の登場人物が到着する場面、そして、『ロルナの沈黙(原題)』の終わり近く、精神のバランスを崩した主人公ロルナが沈黙のなかで子どもと虚構の対話をする場面を映し出しながら、氏は、3つの抜粋においては、会話の文句、(世界の現前をもたらす)美しいイメージ、沈黙の契機がそれぞれ懐疑主義を表現する道具になっていると解説した。


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 講演後のディスカッションでは、スノビズムからくっきり区別された美学的次元をドムナク氏が描きだしたことに関心が寄せられ、また、1940–50年代の「ハリウッド黄金期」や(カヴェルがハーヴァード大学で映画の講義を始めた)1960年代と現在の状況とのあいだにみられる映画鑑賞の慣習や観客の経験をめぐる違い、ウィトゲンシュタインの映画観とカヴェルの映画観のあいだの隔たり、カヴェルにおける幸福の問題と懐疑主義の問題の関係などが論点となった。また最後の論点に関連して、ドムナク氏は、カヴェルにおいては道徳的完成や教育という考えが大きな価値を持っているという講演中にすでに行っていた指摘に添えて、各人が幸福を追求するという考えが、カヴェルのうちに、彼の哲学が培われ展開されたところとしてのアメリカ合衆国という地域性とおそらく切り離しがたい形で強力に存在しているという観察を呈示した。それは、思想史的研究においては、外からの眼――氏のケースでは、フランスで生まれ、育ち、大学教育を受けたという経歴によるところのそれ――が、対象を位置づけ相対化するために大いに有効であるという、氏の方法論的な考察を裏うちする観察であったように思う。


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ドムナク氏の著作Stanley Cavell, le cinéma et le scepticisme (PUF, 2011)には、今回の講演が下敷きとしていた研究を読むことができる。

(佐藤朋子)

関連するUTCPイベント

エリーズ・ドムナク講演会「映画における懐疑主義の表現」
Date: 2011年10月28日(金)16:30-18:30
Place: 東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1

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