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時の彩り(つれづれ、草) 143

2011.12.19 小林康夫

暮れていく時に(1)
 またしてもひと月以上経ってしまった。わたしはどうも、こまめな発信が得意ではないみたい。ツィッターなるものをやる人の気持ちがよくわからない。旧世代ですね。でも、グローバルCOEも残り3ヶ月だし、この暮れていく時間に、この間たまった思いを少し書きつけておくことにしよう。

香港(1)
 今月の8日から11日まで香港に行っていました。香港中文大学での日本哲学の国際シンポジウム、さらに香港城市大学での「哲学と災害」のセミナーに出席のためです。二つの英語の講演原稿を用意するのに半月ほど苦しみました。今回は、ひとつはすでにある日本語テクストを翻訳していただいたのですが、それに付け加えるイントロダクションともう一本はダイレクトに英語で書いてみた。UTCPのロバーツさんにはお世話になりました。まあ、英語だとフランス語のように「気取る」言い回しはできないので、まるで単純な文章で少し恥ずかしいのですが、ともかく学生のように、英語の電子辞書を引き続ける時間でした。

 それはともかく、実は、日本哲学だし、わたしはちょっと部外者かな、という気分で出かけたのでしたが、シンポジウムの最初の発表、オーガナイザーの張先生の基調講演の最初のパワーポイントのスライドに「UTCP」の文字が鮮やかに。2年前に駒場で行った日本哲学のシンポジウムへの言及から全体がスタートしたのです。しかも張先生の発表の最後にはわれわれがつくった『いま、哲学とはなにか?』から坂部先生のテクストが引用されていた。なんだか駒場と香港がつながった気分になってきた。しかも、第1日目の午後のモデレーターのひとり中文大学の美しい先生が、マイクをとるなり、「あれ、小林先生がいる!」と。表象文化論の教え子の邱淑婷さんなのでした。さらには、もとUTCPで現在、城市大学のガブラコヴァさんも主催者のひとりとしているし、元駒場の同僚の林少陽先生も来てくれたし、ゲストのほうも日文研の稲賀さんに、アイルランドでもご一緒したハイジック先生、パークス先生と旧知旧友が多く、まるでAwayという感じがしない。

 わたし自身は、二日目のゲスト講演という枠で、日本哲学という「未完成のプログラム」という言い方がシンポジウムの動機のひとつだったこともあるけれど、シューベルトの未完成交響曲が2楽章でできているのにひっかけてというわけではないが、日本哲学という理念についてのわたしの考えをデリダのcapを逆転させたcupで語るイントロダクションと坂部恵先生を追悼した発表(「水声通信」で既発表)の二本立て。後のものは真ん中を大きく抜いたので、なんとか30分の時間に収めたわけでした。スライドで伝統的な「楽」の茶碗などを少し見せたりしたのでしたが、少なくともその部分は好評だったかな。日本哲学というとどうしても京都スクール中心になるのを、わが友人(と言わせていただこう)坂部先生の哲学を持ち込むことで「風通し」をよくしたかったんですね。張先生の冒頭の講演にも、それに続いたガブラコヴァさんの講演にも、エコーを返すことができたのはよかったと思っています。

 城市大学のセミナーのことは、(忘れなければ)明日!続きを書きます。

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