【報告】ワークショップ「レヴィナスを開く——研究の現在とこれから」
11月11日(金)、若手研究者によるワークショップ「レヴィナスを開く——研究の現在とこれから」が開かれた。
当日はあいにくの雨にもかかわらず、学内外から多くのご参加をいただきました。以下、登壇者の方々から後日いただいた感想を掲載し、報告に代えさせていただきます。
◯小手川正二郎(「他人と他者 レヴィナスと分析哲学の他人論」)
昨年より藤岡さんや渡名喜さんらと立ち上げたレヴィナス研究会の一員として、『全体性と無限』刊行50周年を記念したワークショップに参加させていただいたことは、大変感慨深いものがありました。今回はレヴィナスと分析哲学の他人論をテーマに、〈他者〉(l’Autre)とは区別されるべきレヴィナスの他人(autrui) 論の展開可能性を模索しました。他人の心の私秘性という神話への批判的態度にウィトゲンシュタインとレヴィナスの近さを見出しましたが、言語や表現といった概念のより詳細な比較検討が必要となると思います。分析哲学の概念枠組みからレヴィナスの思想の厳密さを吟味する作業や、レヴィナスの思想の展開可能性を分析哲学との比較を通じて明らかにする試みはまだ始まったばかりで今後非常に豊かな可能性を秘めていると思います。今回のワークショップで池田さんと渡名喜さんとこうした可能性について議論できたことは大変有意義なことでした。レヴィナス哲学がレヴィナスの読者によって、厳密な概念分析と豊かな事象分析へと開かれていくことを期待しています。
◯池田喬(「レヴィナスとハイデガー 『全体性と無限』と『存在と時間』」)
『全体性と無限』は丸ごと一冊『存在と時間』の批判として書かれたといってさえよい書物である。今回は、ハイデガー研究者の立場から、レヴィナスのハイデガー批判に関して率直に感じるところを語らせてもらった。『存在と時間』における(他者の)死についての議論は、レヴィナスの議論と対立するというより分かち合っているというべきところが多いし、その部分をはっきりさせることで、レヴィナスに固有な他者論の射程も明瞭になるように思える。レヴィナスの専門家である他の発表者の方々からの反応は概ね良好であり、安堵した次第だが、そもそも、ハイデガーとレヴィナスでさえ専門家間の交流が欠けがちで自分の考えに対してどういう反応があるのかを知りあぐねている状況はまずい。今回の試みを、「レヴィナスとハイデガー」という現代思想の一大トピックの研究を共同的に今後進めていく一歩になるようにしたい。(企画と司会を務めてくれた藤岡さん、野心的な議論で「レヴィナスを開く」ありかたを見せてくれた小手川さん、渡名喜さんに感謝いたします)
◯渡名喜庸哲(「近代性とユダヤ性 レヴィナスとメンデルスゾーン」)
企画をしてくれた藤岡さんが述べたように、ここ数年、レヴィナス研究は飛躍的に進化・深化しているが、こうした広がりと反比例するかたちでレヴィナス研究に若干の閉塞感があるということは否めまい。おそらく、レヴィナスに内在的な、細かい議論と平行して、レヴィナスから批判的な距離をとった議論が必要なのだろう。小手川さんのレヴィナスと分析哲学、池田さんのレヴィナスとハイデガーという議論は、まさにこうした「距離」をどのようにとるべきか、そこから出発してレヴィナスをどう論じるべきかという展望を開いてくれるものだったように思われる。私は今回、レヴィナスとメンデルスゾーンとして、「ユダヤ人哲学者」と言われるレヴィナスにおいてこの「ユダヤ」と「哲学」とはどういうふうに考えるべきなのか、という点について話をさせていただいたが、こうした問題も、単にレヴィナスのみならず、ほかの現代の哲学者にも敷衍できる問題だろう。また、本発表では深められなかったが、こうした問題はさらに、「哲学」の「国籍」とは何か、そこに暗黙に前提とされている「西洋」や「近代」の普遍的価値をどのように捉えるべきかという大きな問いにもつながっていくだろう。今回のワークショップを一つのきっかけとして、日本におけるレヴィナスをめぐる対話がいっそう多様なものになっていくことを期待したい。
今回の三本の発表はすべて、レヴィナスと別のなにか(分析哲学、ハイデガー、メンデルスゾーン)を比較するにとどまらず、レヴィナスの個別研究を超えて浮かび上がる問題を一つ上の次元で示してくれました。私個人の感想ですが、小手川発表では、哲学において他者(他人)について語る際に前提とされるべき議論の枠組み(言語・表現・対話など)や語彙の問題に注意を向けられました。池田発表では、ハイデガーとレヴィナスの共通点と相違を通じて、ある哲学者が他の哲学者を踏まえて議論する(別のことを語る/同じことを別の言葉で語る)とはどういう行為なのかを考えさせられました。渡名喜発表では、哲学がはらむ普遍的特殊性は、避けがたく普遍と特殊のいずれに軸を置くかという決定を迫るものでもあり、このことは読者としての自分自身にも関わる解釈と継承の問題だということに気付かされました。
一見すると各発表は異質なテーマを扱っていますが、実際には共鳴しあう部分も多くあったように思います。小手川発表と池田発表には、表現の問題としての他人論と、死という場面に焦点化された他者論との対比がありました。そもそもハイデガーは心や内面を批判し現存在を「開示態」として提示したわけですが、表現の動的な側面を強調するレヴィナスがこれを継承しつつ、非本来的な「世間話」とは異なる言語のあり方を模索したのは注目に値します。また小手川発表と渡名喜発表では、レヴィナスの言語論で用いられる内面性と、ユダヤ教論考で論じられる内面性(政治権力には不可侵の良心の自由)とが響き合っていました。最後に池田発表と渡名喜発表では、未完了の死という終わりを先駆的に覚悟することから過去へと議論を転じるハイデガーと、時間の時間化を死の延期と捉えたうえで「繁殖性」による死の乗り越えを考えるレヴィナスという、過去に向かう歴史性と未来に向かう歴史性の相違が浮き彫りになりました。
今回の企画は、「レヴィナスと◯◯」と題された各発表を通じてレヴィナスを相対化しうる視点を一つずつ確保し、それによってレヴィナスを再読するための新しい道筋を見出したいという趣旨でしたが、このことと関連して、渡名喜さんが発表の最後に「近代性とユダヤ性」のあいだの「と」の問題に言及されたのが印象的でした。日本語の「と」は並列助詞と呼ばれますが、英語のandなどは等位接続詞であり、なにかを並列的に列挙する場合でもそれらを対等に結びつける機能を持っています。日本語では軽く「◯◯と◯◯」と言ってしまいますが、実はそれらを「と」で結びつけるのはそれほど容易なことではなく、本来はそれ自体として説明を必要とするはずです。その意味で、このことは「レヴィナスと◯◯」という仕方でレヴィナスを「開く」ことを目指した今回の企画の趣旨そのものに関わってきます。
今回の企画を超えて、新たな対話を開く色々な試みがありうるでしょうし、そのそれぞれが各々の態度表明になるのだと思います。レヴィナスよりも一つ上の世代の「ユダヤ哲学者」たちは同化とシオニズムの選択の問題に直面していましたが、たとえばコーエンの「ドイツ性とユダヤ性」を受けて、この「と(und)」という中間の道を生きようとしたローゼンツヴァイクのような立場があります。また、とりわけ、ブーバーの『我と汝』の場合のように、対話の哲学の核心となる「と」もありうるでしょう。並列に置くことのできない異質なもの、他なるものを不意に出会わせてくれるこうした「と」こそ、レヴィナスが求めたものだったような気がします。
最後になりましたが、今回のワークショップはもとより、翌日・翌々日に明治大学で行われた『全体性と無限』刊行50周年国際シンポジウムにも多くのご参加をいただきましたことに、この場を借りて感謝を申し上げます。
また、来たる12月18日(日)には京都大学において京都ユダヤ思想学会主催のシンポジウム「レヴィナス哲学とユダヤ思想」が開かれます。こちらもこの場を借りてご案内させていただきます。(藤岡俊博)