【UTCP Juventus Afterward】國分功一郎
UTCPを巣立って新天地で活躍されている六名の方にUTCP Juventus特別篇としてブログ執筆をお願いしました。題して、UTCP Juventus Afterwardです。3回目は國分功一郎さん(17世紀哲学・現代フランス哲学)です。
部分的な政治哲学
UTCPで活動させていただいたことについては、こちらを参照していただければ幸いである。
ここでは、いま筆者が漠然と考えていることを紹介したい。
いま私たちは民主主義の社会を生きていることになっている。しかし、民主主義とはいったい何だろうか? 私たち民衆は主権者だと言われている。しかし何も決めることはできない。私たちにできるのは、時折、しかも大変不十分な仕方で、立法権に関わることだけ、つまり、選挙で代議士を選ぶことだけである。
これは大変漠然とした印象であるが、近代の政治哲学を見なおしてみると、どうもそこには立法権中心主義とでも言うべき思想があるように思われる。どういうことかと言うと、「これこれの手続きを踏んで作られた法律ですから、これで文句ありませんね?」と言える仕組みがどうやったら作り出せるか、そのことばかりが論じられてきたように思われるのである。
たとえば近代政治哲学の出発点にある社会契約論を考えてみよう。社会契約論に見出されるのは、国家権力は民衆からの委託契約に基づいて運営されているのだから、そこで決定された法律は正統だという考えである。これは要するに、かつては「神さまが決めた」とか、「王様が決めた」とか言って正統性を付与していたのにかわって、「民衆から委託で権力を与えられた機関が決めた」と言い換えたに過ぎない。
政治というのは一と多を結びつける行為である。人間は多数いるが、政治的決定は一つしか出せない。だから、その一つの決定の正統性を様々な形で与えてきた。社会契約論はその近代的なバージョンである。しかし、一と他を結びつけるのだから、当然、そこには無理がある。近代では、「民衆」というエージェントが引き合いに出されているにも関わらず、その意見——世論でも民意でもいいが——が政治に反映されていないという不満が常に存在した。それはファシズムや全体主義の一つの要因になった。
そこで、このギャップを埋めるために様々な方法が考えられてきた。最近では例えば「熟議」なるものが注目されている。
一と多を結びつける行為とその結果にどうやって正統性を与えるか、つまり、立法の根拠をどこに求めるかという問題は非常に重要である。しかし、ここには一つ落とし穴があるように思われる。この問題は難題すぎる。難し過ぎる。難し過ぎるため、そこに頭を悩ませ始めると、それ以外のことが考えられなくなってしまうのである。具体的に言えば、立法権の正統性のことを考え始めると、他のことがなかなか考えられなくなってしまうのだ。
そうしてなかなか中心的な話題として取り上げられなかった分野として、ここで筆者が強調したいのは、行政権のことである。
実際に社会の中で生活していれば分かることだが、私たちの生活に一番身近な権力は行政権力である。子どもが出来れば、保育園に子どもを預けることがあるだろうが、保育園を運営しているのは地方自治体である。地方自治体がきちんとそれを運営していなければ、私たちは大変な不利益をこうむる。
住宅の周りには道路が張り巡らされているが、道路を建設するのは国なり地方自治体なりの行政権力である。道路がなければ私たちは大変不便をする。しかし同時に、作ってほしくない場所に道路を作ると行政が言い出したら、私たちは大変な不利益をこうむる。
他にいくらでも例は挙げられる。また「地方分権」が異口同音に語られる今、地方自治体の行政権は私たちの生活にとって極めて強い影響力を持っていると言っていい。
しかし、民主主義の主権者である私たちは、いったいこの行政権力に対して何ができるだろうか? 基本的に何もできない。地方自治体が保育園を民営化しますとと突然言ってきた。私たちに何ができるか? オフィシャルな仕方でそうした行政の決定を止める権限は住民にはない。地方自治体が、あなたの家の真ん前にどでかい道路を作ると言ってきた。私たちに何ができるか? 何も出来ない。オフィシャルな仕方でそれに関わろうとすれば、選挙に打って出て、地方自治体の長にでもなるしかない。あるいは別の権力に頼るしかない。司法権、すなわち裁判である。
もちろん、行政権は住民の意見を聞かねばならないことになっている。しかしそんなものは言い訳にすぎない。行政が重要な決定をする場合には、現在、パブリック・コメントを求めねばならないことになっている。しかし、パブリック・コメントを一度でも書いたことのある人なら分かるが、これは「意見を聞きました」と言い訳するための制度に過ぎない。何らの法的な拘束力もないからである。
何が言いたいかといえば、現在の民主主義と言われる社会において、私たちは、自分たちに最も身近な権力である行政権力に対して何もできないということである。繰り返すが、私たちに許されているのは、立法権に時折、部分的に関わることだけである。選挙で投票することが許されているだけである。これは民主主義なるものの大いなる欠陥ではないだろうか?
そして、大変大雑把なまとめではあるが、近代の政治哲学を見ていると、その視線はほとんどの場合、立法権の正統性に向けられていて、行政権に住民がどうオフィシャルに関わるかという問題はほとんど論じられていないように思われるのだ。つまり、この身近な問題は、近代政治哲学の一つの欠落に直結しているように思われるのである。
筆者は今、この欠落を生める新しい政治哲学の必要性を感じている。この来るべき政治哲学は、政治体制の全体を見渡してその正統性を確たる体系として作り出すものではない。あくまでも近代政治哲学の欠落部にこだわって、その埋め合わせをしようとする哲学である。ある種の部分的な政治哲学である。
なぜ部分的な政治哲学の必要性を述べるのかというと、政治制度の全体を見渡してその正統性を確たる体系として作り出そうとすると、どうしても立法権の正統性に関わらざるを得ず、そして、それに関わると、これがあまりにも難しい問題であるが故に、それ以外の部分に労力を割けなくなってしまうからだ。
ではその新しい部分的な政治哲学をどこから構想していけばよいか? これはまだアイディアに過ぎないのだが、一つ参考にしたいと思っている哲学者がいる。それがデイヴィッド・ヒュームである。ヒュームは社会契約論を根本的に批判した。そして社会契約論は近代政治哲学の出発点にあり、その根幹をなしている。ならば、社会契約論を批判したこのスコットランドの哲学者は、新しい政治理論を考える上でのヒントを与えてはくれないだろうか?
ジル・ドゥルーズによれば、ヒュームの政治哲学のすぐれた点は〈制度〉に注目したところである。社会契約論は、「人間は放っておくとろくでもないことをするから、〈法〉でさまざま行為を禁止しなければならない」と考える(そして、この禁止する〈法〉の根拠探しに躍起になる)。対しヒュームは、「社会契約論のそんな人間観は抽象的であって、人間というのは放っておいても共感しあって適当にうまくやっている。そして適当にうまくやっていくにあたって人間が作り出すのが〈制度〉だ」と考える。
〈制度〉とは行動のモデルである。そしてこの行動のモデルは欲求を満たすために作り出される。たとえば所有という制度が作られれば、貪欲という欲求が満たされる。結婚という制度が作られれば、性欲が満たされる。ヒュームの社会理論では、社会の最初にあるのは、〈法〉による禁止のような否定的なものではなくて、〈制度〉による行動のモデルの提示のような肯定的なものである。ヒュームは〈制度〉こそが社会を作ると考える。
この〈制度〉という概念を民主主義の中心に据えられないだろうか? つまり、民衆による選挙を通じての〈法〉に対する正統性の間接的な付与ではなくて、〈制度〉を通じての民衆の行政への正式の参加に焦点を当てて政治理論を組み直すのだ。その際、もちろん、前者の仕組みが廃棄されるということではないし、それを批判するわけでもない。そうではなくて、〈法〉への正統性の付与というあまりに難しい(というか、おそらく最終的には答えは出ない)問題ではなくて、より実際的な論点を哲学的に理論化するのである。この政治理論は、政治制度の全体を見渡してその正統性を確たる体系として作り出そうとするものではないから、あくまでも部分的である。そして、この部分的な政治哲学がおそらく必要なのである。