【UTCP Juventus】安永麻里絵
【UTCP Juventus】は、UTCP若手研究者の研究プロフィールを紹介するシリーズです。今回は、RA研究員の安永麻里絵 (近代美術史・美術館展示史 )が担当します。
「展示されている美術品を順にひとつひとつ鑑賞する」という近代的な美術館空間のあり方はどのように制度化されていったのか、という問題について研究を進めています。ドイツのフォルクヴァング美術館における展示形式の展開を中心的主題とするこの研究テーマについては、過去のブログ記事[2009][2010]をご覧ください。
現在は、ひとつの美術館における展示形式の展開を辿る手法から少し視点を変えて、あるひとつの作品の展示歴を辿ることを通じて、作品がさまざまな思想的、社会的文脈にその都度置き換えられていく様相を描き出す試みに着手しています。
具体的な対象として取り上げるのは、エミール・ノルデ(1867-1956)というドイツ表現主義の画家の作品です。特に、宗教主題を扱った祭壇画と、オセアニアの造形物を描いた静物画に焦点をあてています。ノルデの作品は、1910年代以降、すぐれて多くの美術館や画廊でさまざまな形で観衆の目に供されてきましたが、1937年の「退廃芸術」展は彼の作品が大変特殊な歴史的、思想的文脈に置かれた瞬間といえます。
[エミール・ノルデ、《伝説:エジプトの聖マリア》1912年]
1930年代、ナチス政権下のドイツでは、「退廃芸術」運動と呼ばれるモダン・アートの排斥キャンペーンが大々的に展開されました。このときノルデの芸術は政府からの厳しい批判と排斥にさらされ、1937年にドイツ各地の美術館から没収された彼の作品は1,052点にものぼりました。この年の夏にミュンヘンで開催された「退廃芸術」展には、そのようにして没収された112人の芸術家の作品650点が嘲笑と非難をこめたキャプションとともに並べられましたが、その中には祭壇画を含むノルデの油彩画29点もありました。
これに先立って、ノルデを初めとするモダン・アートの支持者であった美術館人たちは、すでに1933年頃から次々と美術館の職を追われていました。その際に美術館の展示は、これらの美術館人たちの「退廃」ぶりを示す重要な証拠として扱われました。たとえば、当時ケルンの美術工芸博物館長を務めていたカール・ヴィートは、ユダヤ人でなかったにもかかわらず、ゲルマン文化由来の工芸品とアフリカの工芸品を並べて展示したために、ゲルマン民族の優越性を汚す思想の持ち主として退職に追い込まれたのです。あるいはまた、エッセンのフォルクヴァング美術館の職にあったエルンスト・ゴーゼブルフは、ノルデの作品をオセアニアの造形物と共に展示し、同じくノルデの支持者であったマックス・ザウアーラントから、そのような展示によってドイツ美術がフランス美術に匹敵するものであることを証明した、という賛辞を受け取りました。ザウアーラントの言葉には、反フランス的なナショナリズムが伺えるようにも思われるのですが、しかし、ゴーゼブルフもザウアーラントも、ナチスによって職を追われることになりました。
[エッセン・フォルクヴァング美術館、ノルデの作品の展示風景、1929年頃。アルバート・レンガー=パッチュ撮影]
ザウアーラントの言葉は特に顕著な例ですが、「退廃芸術」展に出品された芸術家たちを支持していた美術館人たちこそ、むしろ、時代にふさわしいドイツ的精神を体現するドイツ美術を盛り上げようとそれまで奮闘してきた人々であったのです。少し時代をさかのぼってみれば、ノルデの作品をいち早く美術館として購入し、これを初めてオセアニアやアフリカの美術と共に公衆の観覧に供したカール・エルンスト・オストハウスは、19世紀後半に広がった、“喪われたドイツ民族の精神”の復興を謳う民族主義運動(「フェルキッシュ・イデオロギー」)に共感していた人物であり、彼が設立したフォルクヴァング美術館(1902-1921)はまさにそうした使命感に端を発していたのでした。そして、このフェルキッシュ・イデオロギーこそ、後年ナチスの民族主義思想に展開する根源のひとつとなったとして戦後批判されてきたものでもあるのです。
このように、いわばどちらも等しくドイツ的精神の「善き」あり方を芸術に求めながら、一方はモダン・アートを擁護し、他方はそれを排斥する、というパラドックスが生じたといえます。こうした美術をめぐる複雑な思想の絡み合いを、展示というテクストをヒントに紐解いてみたいと考えています。目下、昨年に引き続きロサンゼルスのゲッティ・リサーチ・インスティテュートにて、上述した美術館人たちやノルデの書簡、戦後没収された作品の追跡調査に取り組んだ法律家ヴィルヘルム・アーンツにかんする資料などの調査にあたっています。