【報告】カタストロフィの哲学第2回 Régis Arnaud "Au-delà du désastre - un regard français sur le 11 mars"
東日本大震災の二ヶ月後にあたる5月11日、ジャーナリストのレジス・アルノー氏とマルチメディア・アーティストのケイコ・クルディ氏を駒場キャンパスに迎えて、「カタストロフィの哲学」シリーズの第二回を開催した。上記、アルノー氏の講演のタイトルは、日本語に仮に訳すならば「災禍の彼岸——3月11日への一フランス人のまなざし」となる。
小林康夫UTCP拠点リーダーが司会を務め、また会場には学内外からさまざまな職業、専門、国籍の方々にお越しいただいた。反面、主な使用言語がフランス語であったという事情から参加を断念された向きもいらっしゃったはずであり、その方々には報告がこのように遅れたことをとりわけお詫びしたい。
イントロダクションで小林リーダーは今回の企画を「ワークショップ」と位置づけた上で、いくつかの問いとともに次の二つのモティーフを提示した。一つには「話す」こと。3月11日以降さまざまな仕方で話すことが求められているなかで、外国語は、もしかしたら、日本語で今広く流通している言説とは相当に異なる仕方で話すための有効な一手段でありうるのではないか。もう一つには、外国の視線を、いうなれば「聴く」ということ。もしかしたら外国人は日本人とは異なる仕方で現在の状況を見ているのでないか、もしそうだとしたらその差異はどのようであるだろうか。
来日して16年になるというアルノー氏は、フランスの保守系有力日刊紙として知られる『ル・フィガロ』や、『ラ・トリビューン』、週刊誌『チャレンジ』の日本駐在通信員を務め、また『ニューズ・ウィーク』でも定期的に記事を担当している。今回の講演で氏は、ご自身が撮影した写真をときおりスクリーンに映し出しながら、東京で地震に遭遇した3月11日と、東北に赴いて取材にあたった直後の8日間、そしてその後あらためて現地に滞在したときの体験と印象について語った。
アルノー氏がたどり直したその足取りは次の通りであった。仕事場がある四谷で地震に遭い、翌日、他の4人のジャーナリストとともに東北に向けて自動車で出発。名取の仙台空港付近で広範な物質的損害を初めて目にし、また、日本語を話さず解さない中国人漁業従事者たちが彼らのあいだで相談している様子を見る。一日かけて仙台に到着、ついで塩竈に赴く途上で、発令された津波警報にしたがって避難を経験(同行者はこの時点で2人)。その後、たえず地震を感じるなかで病院を訪問し、他の街々に向かい、南三陸まで到達。途中、海岸から15キロ内陸まで続く徹底的な破壊の跡を見る。一度帰京し、二人の子を連れてフランスに行き一週間過ごしたあと、日本に戻り、再び東北に取材旅行に。富岡では、事前に入手していた情報から心構えしていたとおりの壊滅的な状態の街を見、飼い主なしにうろつくゴールデンレトリバーに出会い、そのなかでなお残る「明るい未来のエネルギー」を謳う看板をカメラに収める。石巻では、震災から四十九日にあたる日に、地元の僧侶が亡くなったために他処から来た兄弟が代わりを務めて法要を営んでいるところに行き合う。港では、売れる当てもないまま冷蔵庫のなかで保管されていた5万トンの魚が腐敗しつつあり、三陸の牡蠣を(牡蠣の大量死が近年に起きた)フランスのブルターニュに導入するという計画が流れたという、思いもしなかったグローバル化のイメージを喚起する話を聞く。この二回目の取材旅行のあいだには、盗難が起きたところでそれを中国人の仕業に帰す声があがるのを耳にし、また、家を失って避難している人々や、全国各地から来た学生を中心とする沢山のボランティアに会う。
氏は、とくに一回目の旅行中に、携帯電話を中心とする通信手段を介してフランスでの反応も同時進行的に体験したが、そこで感じたのは、遠いところほどパニックが大きく、また原発に生じつつある事態が早くから強く懸念されていたことだという。EDF(フランス電力公社)の要職に就く知人や外務省の外交官は、事態収拾を指導するリーダーの不在を危惧し、日本を離れるよう氏に勧めてきた。昼夜テレビから離れず、しきりに−−−−氏の言葉では2時間ごとに−−−−氏の携帯に電話をかけてきたフランスのご母堂は、仙台付近で出された津波警報もテレビ報道を通じてほぼ同時に知り、氏がまさに避難しようしているところにその発令を連絡してきた。氏が体験したこととしてはまた、講演のなかでことさらに強調されることがなかったとはいえ、疲労、そして、フランスにいるときに自らについて抱いたという、意気地のなさ、あるいは卑怯さ(lâcheté)の思いも、ここでは書き留めておくべきだろう。
氏が最後に引いたのは、講演準備中に思い出したという、「The fault […] is not in our stars, but in ourselves」というシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』のなかの一節であった。氏の目からすると、震災以降に顕著に現れたことのなかに何か新しいものはなく、日本における政治の粗末さと、日本人のあいだの兄弟愛という、以前からのものがよりはっきり認められるばかりである。カタストロフィを経て人々の団結はさらに強固になったかもしれないが、はたしてそれによって人々はよりよくなるかは疑問である。氏は、今回の事態から何かが学ばれたという見方を懐疑し、人間がなすべき仕事の肩代わりを自然がすることはない、という言葉で自分の見解を呈示した。
ディスカッサントとしてご参加いただいたクルディ氏は、長期留学の経験を通じて以前から日本を知る。氏は、アルノー氏の感想とは方向性がかなり異なることをご自身で指摘しつつ、震災を挟んでのありうべき変化に自らの関心が向かっていること、そして、3月11日以降、とりわけエネルギー、環境、自然に対する我々の関係という点で何が変わったのか、何が変わりつつあるのか、何が変わってゆくのかという問題意識を引き受けながらドキュメンタリーを作成する企図があることを述べた。
氏がご自身の体験として具体的に述べられたのは、まず、現在在住するフランス、震災の第一報が届いた翌日に訪れたイギリス、そしてフェースブックを中心にインターネット上で得られた情報や観察された反応である。ヨーロッパのテレビは震災のニュースで数日間埋め尽くされ、原発で起きた爆発が報道され、またチェルノブイリの映画やドキュメンタリーが膨大に流れた。フランス人の反応の著しさや恐れは、チェルノブイリ事故が起きた当時にほとんど情報を与えられなかったという意識によっても説明されうるだろう。氏は、ついで、5月2日に来日してすぐに向かった仙台と石巻およびその周辺で見聞したことの感想を述べるときにも、同じ指摘を別の形で繰り返した。被害が少なかった松島では大勢の観光客を見、石巻では361人の人々が避難生活を送っていた小学校を訪問し、連休を利用してやってきた多くのボランティアにその間出会った。そのなかで氏が気付いたことの一つが、人々がフクシマについてほとんど語らないということ、訊くと、福島は遠いという答えがしばしば返ってくることであった。氏によれば、東京でははるかにより大きな話題になっていたが、たとえば、震災復興に向けての自然環境と建築の再考をテーマとする仙台で聴講した講演会では、講演でも、その後の会場を交えてのディスカッションでも、福島への言及は二時間のあいだ一言も聞かれなかった。氏は、実際、フクシマについて今問題なのは復興ではなく、また、確かにそれは議論しにくい主題であるとしつつも、フランスから来た身として、日本における原子力についての情報と教育の不足をそこで感じたことを述べた。また、そこで感じた違和感をさらに分析することを試み、それともこの沈黙にみてとるべきなのは、話すことによって物事が存在するようになる、この場合では、危険が真のものになる、という感覚、「言霊」の語が表す心性なのだろうかという問いかけを添えた。
二氏の話ののちに行われた会場を交えてのディスカッションは盛んであった。いくつかのコメントは、原発事故に対するフランスの敏感さとその背景、自然に対する我々の関係の再考、恐ろしい現実についての沈黙という点で二氏が示した見解を支持し、さらに展開しようとした。また二氏とはやや異なる視点として、公的な言説に対する深い不信感という、たとえば近年のアメリカ合衆国では一般的ともいえる文脈のなかで、今回の震災に際しての諸外国の人々の反応を考察する可能性や、自然のカタストロフィとは区別して科学技術のカタストロフィを考える必要があるとする指摘が呈示された。震災と原発事故以降の日本人のもろもろの態度のうちにみられたアニミズム的側面、日本における完全に独立した原子力安全の権威の欠如、(ボランティア活動の大規模な展開に比したときに際立つ)政治的手段としてのデモ活動の未発達さないし未熟さ、より一般的に言うならば、市民運動の政治的な翻訳の不在、といった論点もまた提起された。
最後に個人的な感想として、本講演会の基調を標づけていると報告者には思われたある種の素人らしさに触れておきたい。このように言うと語弊があるかもしれず、また、二人の講演者のプレゼンテーションや当日の会場の様子を知る方々の耳には奇妙に響くかもしれないため敷衍するならば、それは、何よりもまず、この講演会が、語源的な、つまり経験があるという意味での「エキスパート」の見方を共有することを企図した場ではなかったかぎりにおいてである。あるいは、別の観点から言い直すならば、問題とすべきものが、既成の図式を利用した解釈に容易に従わないほど多岐に渡ることがそこであらためて確認されたということである(たとえば、日本と諸外国のあいだにみられた人々の態度の差異を説明するために震災後ときに持ち出された冷静さの度合いという図式的な整理によって、それぞれが実のところ精確には何に対する反応なのか、それぞれはどのような政治的社会的関心や経験知、文化的営為に連絡しているのか、等々のありうべき問いが捨象されがちになることをいくつかの指摘が具体的に示していたように)。また、今回提起された諸論点は、より洗練された仕方での追究に値する重要性をもつだろうという印象もここでの含意としたいと思う。
(文責・佐藤朋子)