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【UTCP Juventus】小松原孝文

2011.08.31 小松原孝文, UTCP Juventus

【UTCP Juventus】は、UTCP若手研究者の研究プロフィールを連載するシリーズです。ひとりひとりが各自の研究テーマ、いままでの仕事、今後の展開などを自由に綴っていきます。今回は小松原孝文が担当します。

 私が今研究しているのは、保田與重郎(1910-1981)という文学者です。初期には小説も少し書いていますが、残されているテクストの大半は批評です。保田は、東京大学の美学科出身で、在学中から仲間たちと『コギト』(1932年)という同人雑誌をつくり、後に神保光太郎や亀井勝一郎とともに『日本浪曼派』(1935年)という雑誌を創刊しました。戦争中の若者に熱狂的な支持を得たということで、この時代の文学だけでなく思想を考えるにあたっても、非常に重要な人物であることは間違いありません。
 にもかかわらず、そのテクストの詳しい読解は、十分に進められてきませんでした。それはおそらく、保田の難解な文章と関係があると思われます。例えば、保田の最も有名な「日本の橋」というテクストには、次のようにあります。

  日本の橋の自然と人工との関係を思ふとき、人工さへもほのかにし、努めて自然の相た
  らしめようとした、そのへだてにあつた果無い反省と徒労な自虐の淡いゆきずりの代りに、
  羅馬人の橋は遥かに雄大な人工のみに成立する精神である。

 なかなかの悪文です。こういう事情もあって、保田は論理を無視して、ただ自分の思う美しいものを書き連ねているとしばしば批判されてきました。確かに、この「日本の橋」というテクストでも、何やら煙にまかれたような文章の所々で、日本の橋の美について強調する記述が目立ちます。保田が論理を考えず、恣意的に日本の美を説いていると思われても仕方ないかもしれません。
 しかし、保田は思考を放棄して、ただ美を称揚しているだけなのでしょうか。どうもそうではないようです。そのことを見直して、保田のテクストをどう読んでいくか考えることが今の私の課題です。実際、初期の文学論を見ると、保田がいかに「理」というものを重んじているかがよくわかります。それどころか、保田は極めて論理的に、文学とは何かを考えているのです。だとすれば、上述の文章も、ただ思いついたままを感覚的に書き綴っているわけではないといえるでしょう。
 例えば、先に引用した文について、もう少し検討してみましょう。ここでは、「へだて」に「果て無い反省と徒労な自虐」を見ていることがわかります。「へだて」とはもちろん、何かと何かを「へだて」るもの、すなわち物事を区分する境界のことです。つまり、ここでは「へだて」を無限に「反省」し「自虐」するという、境界の問い直しが語られているということになります。
 では、境界とは何でしょうか。ゲオルグ・ジンメルという人は、「橋と扉」というエッセーのなかで、結合と分離の不可分な関係を説いています。何かを分離するためには、それがもともとつながっているという意識がなければならないし、逆に何かを結合するためには、それがもともと分かれているという意識がなくてはなりません。つまり、結合は分離を前提とし、分離は結合を前提とする。このように分離と結合は、コインの裏表のように不可分だというのです。
 特に「橋」は、二つのものの結合を視覚的に示したものだとジンメルはいいます。確かに、橋が象徴的に示すのは、こちらの岸とあちらの岸を結ぶということでしょう。しかし、結ぶということは、こちらとあちらが分かれているという意識のうえに、はじめて成り立つものです。その意味では、橋は二つの場所を結びながら、同時に区分するものでもあるのです。そのことをふまえるならば、先の「へだて」(=境界)とは、この区分を示す橋そのものだということができるでしょう。
 「へだて」に「果て無い反省と徒労な自虐」を見るという引用文の言葉は、このような橋のもつ分離と結合の不可分な関係から、境界そのものが問い直されるということを示しているのではないでしょうか。そして、境界を問い直すということは、今日の様々な研究分野で問題にされている重要なトピックの一つです。だとすれば、保田は恣意的に橋の美を語っているのではなく、極めて重要な問題を論理的に考察しているといえると思います。
 この問題を単なる橋の問題として片づけないために、同時代の状況を参照してみましょう。このテクストが最初に発表されたのは1936年で、3年後には加筆された改稿版が出版されています。おわかりの通り、この時代はちょうど日本が戦争に雪崩れ込んでいく時期です。盧溝橋事件の後、戦争が拡大し収取のつかない近衛内閣は、東亜新秩序建設の声明を出しました。それは後の大東亜共栄圏構想に発展していくものです。これは民族の自立を唱えつつアジアの連帯を説くという一見理想的な響きをもつものですが、それを掲げて兵隊が攻めてくるのでは、銃を向けられた側からすれば到底承服できるものではないでしょう。
 このような時代に、保田は「日本の橋」というテクストを書いているのです。橋は、文化間を結ぶ懸け橋であるとも考えられます。その意味で、これは大東亜共栄圏のような発想と近づきうるところがあるといえるでしょう。しかし、それが単純に大東亜共栄圏などとは結びつかないのは、橋が架橋によって区分された世界を結ぶだけでなく、橋という境界そのものが自ら反省し、問い直しを求められるからです。実際、それは近代的な境界のあり方――国民国家のよる区分や、東洋/西洋といったオリエンタリズム的な区分――さえも問い直そうとしているように思います。それは今日のグローバルな世界を考えるうえでも、ヒントを与えてくれるものかもしれません。

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