【UTCP Juventus】西山達也
【UTCP Juventus】は、UTCP若手研究者の研究プロフィールを連載するシリーズです。ひとりひとりが各自の研究テーマ、いままでの仕事、今後の展開などを自由に綴っていきます。今回は西山達也が担当します。
専門は哲学です。昨年のJuventusではフランス・ストラスブール大学に提出しました博士論文の内容とその関心の所在について説明させていただきました。博士論文では「思考にとって翻訳とは何であるか」という問いを原理的に探究しましたが、この探究を具体的に肉づけする作業を開始しています。
こうした作業の一環として、本年度は「リズム」という主題をめぐる研究を進めています。現代哲学においてリズムという主題は、生命と意識、人間の行為、歴史、時間の展開の原理として、現象学や「生の哲学」の文脈で(フッサール、ベルクソン、ハイデガー、ベンヤミン、レヴィナス、他)、あるいは詩学や言語学、音楽理論の問い直しの潮流(デリダ、メショニック、ゲオルギアデス)のなかで様々な角度から探究されてきました。
そもそも、西洋諸語において広く用いられている「リズム」という語は、ラテン語経由でギリシア語から由来するものですが、現代語における「リズム」という語義がどこから生じ、それが本来何を意味していたのかをめぐっては語源学的・文献学的な論争の的となってきました。ギリシア語の「rhuthmos」を辞書で引くと、反復的運動、尺度、時間、配置、形態、文字の形といった様々な意味が見いだされます。これを最初に思弁的な概念として練成したのは古代ギリシアのソクラテス以前の思想家たち、とりわけデモクリトスやレウキッポスらの原子論者たちだといわれています。その後、プラトンが音楽と身体の反復的な運動という意味を確立し、現代までこの語義が一般的になりました。
このような多様な語義を内包する「rhuthmos」の来歴をめぐっては、さらに謎が憑きまといます。一方で、rhuthmosの語源が「流れる」「流動する」を意味する語(rheein)であり、寄せては引く波浪の反復的な流動の現象からリズムの原義が発生してきた、という説があります。現在では俗流語源とされるこの説は、ルートヴィヒ・クラーゲスの『リズムの本質』(1923)などで採用されています。これに対して、文献学者ヴェルナー・イェーガーは、rhuthmosが、むしろ流動を固定化する桎梏としての「形態」を意味することを重視し、それが個体形成のプロセスに深く結びついていることを強調します(『パイデイア:ギリシア的人間の形成』,1934)。そもそも原子論者たちによればrhuthmosはアトム(個体)の「形態」を意味していたからです。また、言語学者のエミール・バンヴェニストは、1951年の『心理学雑誌』への寄稿論文において、たしかにrhuthmosは「流れる」という語から派生したが、「波浪の反復運動」からリズムという意味が生じたと推測するのは困難で、むしろrhuthmosは「流動しつつの形態化・布置」を意味するのだ、と主張します(これに対し、アンリ・メショニックなどは、バンヴェニストが「波浪説」の否定に固執しすぎている、として修正案を提出しています)。
20世紀におけるリズムをめぐる語源・文献研究の展開は、けっしてニュートラルな仕方で単語の意味を画定するといったものではなく、むしろ現代哲学における時間性や身体と精神の関係、個体形成、そして実存概念をめぐる諸思想を反映するものだといえるでしょう。逆に言えば、これらの文献学・語源学の成果から照らしてはじめて、20世紀の哲学が展開したリズムをめぐる思弁の意義が明らかになるのではないでしょうか。例えばハイデガー、レヴィナス、ブランショといった哲学者・思想家におけるリズム概念を比較検討することで、この関係を検証できると考えています。6月に明治大学でおこなった講演(「怖れと憐みのリズム」明治大学人文科学研究所総合研究『模倣と創造』第1回定例会)ではハイデガーとブランショにおけるリズム概念をめぐる研究の成果を報告させていただきました。また、8月に一橋大学で開催されましたシンポジウム「実存の悲劇的根拠」(科学研究費補助金基盤研究C「古典の歪曲」の一環として開催:研究代表古澤ゆう子教授)では、リズム概念が実存の問題と深くかかわりを持っているという着想にもとづき、レヴィナスの『全体性と無限』の読解をおこないました。
以上の研究は、リズムという語の意味の変遷と近代的な受容をめぐるものであり、「翻訳の思想」についてのこれまでの研究の延長線上にあるものと言えるでしょう。こうした作業を通じ、翻訳の思想もしくは思想の翻訳に関する研究を継続しつつ、同時に、哲学とその隣接領域とのかかわりを積極的にとらえかえす試みを進めたいと思います。