【UTCP Juventus】荒川徹
UTCP事務局/日本学術振興会特別研究員(DC2)の荒川徹(芸術論)です。風景表現における抽象性を動的な観点から明らかにする研究を行っています。これまでの研究紹介は[1][2][3]をご覧ください。目下の関心について簡単にご紹介します。
《おとし穴》(勅使河原宏監督|1962年)における暗殺者とボタ山の〈顔〉
セザンヌと廃墟をめぐる研究については昨年紹介しましたが、同様の観点から、映画における人工風景・荒地の表現をめぐる研究に着手しました。最初の対象は勅使河原宏です。1960年代の勅使河原宏・安部公房・武満徹によるコラボレーション作品のなかで、《おとし穴》(1962)、《砂の女》(1964)、《白い朝》(1965)はいずれも、炭鉱の廃墟、砂丘の窪みにある家屋、工場や首都高といった、人工風景や荒地を舞台にしている。安部公房は、ウィリアム・ジェームズの「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」という順序の逆転を極端に展開し、抽象的風景という極端な外部から人間の情動を再構築するプログラムを考えていました。勅使河原宏は「風景と人間を同じウェイトで表現する」という意志のもと、安部のシナリオに、風景と人物が溶解し共振するような具体的な映像を、無謀な実験を通じて肉付けしていった。さらに武満徹は、エンジニア奥山重之助との共同作業による楽音の物的・電気的加工によって、物質化された情動を生みだす音楽・音響で風景にさらなる振動を与える。そのような風景と人間の波紋的な様相、あるいは風景が独自の言語として出現する局面に焦点を定め、他の作家の作品も含めて研究を進めていきたいと思っています。
すでに刊行されたものでは、港区アート・アーカイヴの刊行物「なにかいってくれ いま さがす|半影のモンタージュ」に「ボタ山の振動と感覚──《おとし穴》」。11月に刊行予定(恐らく)の所沢ビエンナーレ引込線のカタログでは、「身体風景──セザンヌ・《砂の女》・《アンチクライスト》」というテクストを執筆しています。
トニー・スミスが相関させた建築群
このような風景論の観点を、ミニマリズムの研究にフィードバック中です。昨年UTCPで若手美術史家のミゲル・ディバーカさんが、アンヌ・トゥルーイットについて具体的なアメリカの風景とミニマリズムを接続するレクチャーを行っていましたが、私もそのような作業に取り掛かっています(わたしはディバーカさんの強調された「記憶」というより、むしろ記憶喪失に関心がありますが)。 それ自体は芸術作品ではない人工風景の経験を、芸術を超えるリアリティーを持つものとして見出すようになったのが、アメリカのアーティストであるトニー・スミスです。1951~52年に未成の高速道路をドライヴした経験は、ミニマリズムの原点をなすものとして有名ですが、建築家だった彼は、モダニズム建築に留まらず、ヴァナキュラー建築、地下建造物など、さまざまな建造物・人工風景に関心を寄せていく。同様に、50年代中葉から、ドナルド・ジャッドも、ニューヨークの人工風景をさらに抽象化・ダイアグラム化していく絵画によって、風景経験の物質的感覚を表現していくようになる。セザンヌ後期の抽象性は、廃墟や石切場といった具体的な風景の経験に基づいていることは前回紹介しましたが、ミニマリズムについてもそのような方法は極めて有効であると考えています。