【UTCP Juventus】佐藤朋子
【UTCP Juventus】は、UTCP若手研究者の研究プロフィールを連載するシリーズです。ひとりひとりが各自の研究テーマ、いままでの仕事、今後の展開などを自由に綴っていきます。2011年度の初回は特任講師の佐藤朋子(精神分析史)が担当します。
このシリーズの枠内で書くのは、これで二度目になります。前回は、初めてということもあり、精神分析に関心を向けるようになったそもそものきっかけと、以来とりくんできたテーマの主要な軸について記して、研究の大枠をご紹介しましたが、今回は、あのときに設けた小見出しのうちの後半二つの内容の詳細に少し立ち入ることで、昨秋以降の活動について報告すると同時に、私が自分の研究の性格を基礎的なものと考えていることを説明する機会とさせていただきたいと思います。
「夜の幼児」、あるいは夢のメタ心理学の開始点
昨年十月にパリ第七大学に提出し、受理された博士論文では、精神分析の創始者ジークムント・フロイトの夢理論をとりあげて、その生成と構造、発展を明確にすることを試みました。同様のテーマのもとですでに多くの研究がなされていますが、夢は幼児的願望と睡眠願望の二重の充足(別の言い方をするならば妥協形成)に存するとするフロイトの理論が彼独自の探究方法に根本的な仕方で由来しうることを強調した点で、この研究はなにかしらの特色があるものになっただろうと自負しています。
「夢は願望充足である」。これは、睡眠という生理学的状態の変化に応じた思考機能の不全によって夢という現象は十全に説明がつくとする見解に対抗して、フロイトが一九〇〇年の著作『夢判断』で打ち出したテーゼです。フロイトは言います。夢は心的な形成物であり、ある願望を表現するものである。空腹を覚えながら眠る人が大御馳走を前にする夢をみることがあるが、そうしたケースのみならず、すべての夢が実のところ同じ構造をもっている。一目では願望の実現が認められない夢でも、砕いて断片にし、そのそれぞれについて何でも思いつくことを言葉にしてゆくならば(「自由連想」)、かずかずの連想が収斂するところとしてある願望を明るみに引き出すことができる。夢の分析を深めてゆけばゆくほど、探り当てられる願望はますます古く、幼児的なものになるのであって、原理的にはその探索はおそらく無限に可能である。
フロイトがいう「願望」は、定義からして、外界の修正を目指すものであり、覚醒時には運動性を介して外界の修正を実際に引き起こすことで充足します。しかし、夢は、「願望」がそのような事態を引き起こすことなしに充足しうること、そして、そのかぎりにおいて、覚醒して外界の修正を目指す傾向に対立する力、つまり「睡眠願望」とも呼びうる力がそこで働いていることを示しています。この「睡眠願望」をめぐっては、夢に現われない願望というフロイトの解説があり、ジャック・ラカンやジャン・ラプランシュを含む多くの分析家が、外界からの関心の引き上げというナルシシズム的な性格に注目しながら謎めいたものとして論じていますが、夢分析という実践から理論構築への流れという観点からは次をただちに確認することができます。すなわち、夢として充足する「幼児的願望」という観念とほぼ同時に「睡眠願望」の観念が定式化されること、そして、幼児的願望と睡眠願望のあいだには、夢探究がとる手続きからして還元不可能な相容れなさ、ないし異質性 heterogeneityが横たわっていることです。
フロイトが精神分析独自のものとして構築したメタ心理学と呼ばれる理論が利用する三つの観点のうち、「局所論的観点」は、幼児的願望と睡眠願望の異質性によって根拠づけられる。残りの二つ「経済論的観点」と「力動論的観点」は、その二つの願望の葛藤と妥協形成を表象するという理論的要請に応じている。そして一九二〇年以降に錬成された「上昇欲動(der Auftrieb)」の概念は、幼児的願望に固有の特徴(したがって睡眠願望との差異)を経済論・力動論上で分節化することを可能にする。テーゼの定式化を始まりに据えた観点から理論構造を足早に見てゆくするならばこのとおりになりますが、これについては、フロイトが最後期のテクストの一つ、一九三三年の『続・精神分析入門』で「幼児的願望」に与えた「夜の幼児」という詩的な名を引用することで、包括的な展望を示すことができるように思います。この時期における「幼児的願望」は、発されるやいなや、今しがた述べた三つの観点の成立を意味するにいたります。つまり、「夜の幼児」たる「幼児的願望」は、夢分析を通じてある願望が見いだされるたびにその発見を報告する言葉であり、それと同時に、またそのたびに、夢のメタ心理学の最初の概念であると言うことができるのです。
フロイトの生物学主義の再評価——身体の問いの人文学的な探究の擁護にむけて
葛藤と妥協形成という考えはフロイト理論における基本図式をなしており、神経症の症状形成や幻覚の発生を理論化するところでも用いられるため、上に記した読解を、必要な変更をほどこしながらであれ、フロイトの仕事に対してさまざまに応用することがもしかしたらできるかもしれません。考えられるいくつかの可能性のなか、研究の直近の展開として目下とりくんでいるのは、フロイトのいわゆる「生物学主義」の再評価です。
何度か問題にしてきた二つの願望の異質性への関心が今回もまた出発点にあります。つまり、きわめて図式的にはこういうことが言えるのではないでしょうか——心理学的探究が心的なものを追究し記述してゆく試みであるとして、その探究が記述しえなかったものとして“のみ”生のうちに見いだされうる「睡眠願望」によっては、「身体的なもの」と呼ぶべきプロブレマティックに送り返される。ただし実践においては、原理的にはおそらく無限に遡ることができる幼児的願望の探究が途中でなんらかの壁に行き当たるように、実際的な限界のゆえに記述されないものもあるでしょう。「欲動」というフロイトの概念が含意している「身体的なもの」や、その当時でさえ時代遅れのものと思われた「生物学」へのフロイトの依拠とともに問題になる「身体」においては、方法上の理由から絶対的に記述しえないものと、実際上の理由――時代的な制約にしろ、心理学者フロイトの個人的な事情に由来する制限にしろ――から記述しえないものの双方がひとくくりにされているのではないかと仮説することができるように思われます。また、もし同様の仮説が人文学における身体論についても立てられるのであるとすれば、そうした議論を、制限付きであれ、基礎づけるための試みに通じる途が開かれるのではないかと、不確かながら、期待を抱いています。
このテーマに関しては、体系的であることを目指さず、いうなれば、網羅的ではないカタログの作成をイメージしながら、研究を進めていきたいと考えています。情動や感覚、感情の問いをめぐっては、メタ心理学的命題と生物学の参照とを織り交ぜるフロイトの姿がとりわけはっきりと認められます。そうした問いの具体的な一例として、最近の研究では「よるべなさ」を部分的に検討しましたが、この先、「喪」や「苦痛」、「不安」など他の問いもとりあげて、それぞれをめぐってはどのような身体がどのように論じられるにいたっているかを跡づけてゆきたいと考えています。先人によるこのテーマの開発をいっそう明確にすることも重要な作業ですが、これに関してはとくにジャック・デリダによるフロイト読解に関心を寄せており、メタ心理学と生物学の相補的な関係を捉えるのに有効な言葉遣いをそこから引き出すことを試みています。
最後に、冒頭で述べたことに立ち戻って訂正を加えるならば、「基礎的」とは、実のところ、研究がこれまで目指してきたところを述べた言葉でしかありません。そうした現状を認識しつつ、とはいえ、他方では、大それたものであるに違いないその理想をつねに見据えながら――ただし日々の生活では無駄にそれに拘らないように気をつけながら――、精進し、また、他の研究者の方々との交流を深めてゆきたいと考えています。