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【参加報告】フランカヴィッラ「海辺の哲学」フェスティヴァルに参加して(村松真理子)

2011.07.21 村松真理子

「アゴラの哲学」をイタリアで体験してきました。

イタリアでは、ここ10年来、学術的シンポジウムでも政治的な集会でもない、「哲学フェスティバル」が盛況です。広場や町の公共的な場に、一般の人々、市民が集って、「哲学」や「文学」について語るという催しが、しばしば信じがたいような数の参加者を動員して、マントヴァやモデナなどの有名なフェスティヴァルの場合は、今や地元の観光に結びつく行事となっているほどです。昔からあるジャズ、クラシックの「音楽フェスティヴァル」ではなく、「哲学フェスティヴァル」に集まる市民は、「演奏」ならぬ「講演」「トーク」を聞き、質問し、積極的に参加します。2年ほど前、サッカーのスタジアムの年間予約者数を、文化フェスティヴァルの総動員数が越えたとの報道まであり、数え方の問題はあるものの、一つの現象であることは確かなようです。

今回、私がトークに参加したのは、イタリア哲学協会Società filosofica italiana と地元の自治体が主催する「海辺の哲学Filosofia al Mare 」フェスティヴァルでした(プログラムはこちらです)。今年のテーマは「身体を考える」で、昨年の「アニマ」に続くもの。場所は中部イタリア、アドリア海岸の都市ペスカーラ近郊にあるフランカヴィッラ・アル・マーレFrancavilla al Mare市。19世紀末から20世紀初め、ダンヌンツィオや画家フランチェスコ・パオロ・ミケッティ、音楽家フランチェスコ・パオロ・トスティなどの芸術家たちが集まり、創作した場所としても知られていますが、この地方の中心都市ペスカーラやキエーティ、さらにはローマなどから人々が集まるリゾートとして、20世紀後半、さらに開発された海辺の町です。その中心の海辺の広場にもうけられた小さな仮設舞台。客席は150ほど。二夜連続の夕方からの催しで、18時すぎからフェスティヴァルは始まりました。後半部になると長い夏の一日もすっかり暮れ、夜の帳の落ちる中、進められました。終わったのは、両日ともに深夜。客席は満席でした。

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どんな人たちが企画して、どんな人たちがこの哲学トークに参加しているのでしょうか。1906年創設という全国組織の「イタリア哲学協会Società Filosofica Italiana 」副会長Carlo Tatasciore氏がフランカヴィッラ支部長として企画の中心でした。彼の開会の挨拶にあったように、ここで目指されるのは、アゴラで哲学を語りあうこと。広場脇の書店やバールには、親子連れが出入りしたり、7月の週末の海辺の町の夜をたのしむ人々でにぎわっていました。そのすぐわきに設けられたスペースにならべられたいすに、気軽にこしかけ、人々の集まるちょっとした喧噪と夏のにぎわいの中で、哲学・文学を語るトークに聴衆は耳を傾けます。

この人たちは夕方の海辺の散歩の途中にちょっと立ち寄って、すぐに立ち上がるのかと危惧しつつ、第一番目のトークを担当した私は話しはじめたのですが、熱心に最後まで聞いてくれるひとがほとんど。まだ明るい時間帯で、人々の顔の表情や反応がはっきり伝わってきました。イタリア20世紀初頭を代表する詩人・小説家・劇作家でこの地と関わりの深いガブリエーレ・ダンヌンツィオと、三島由起夫が、60年の歳月と、日本とイタリアという二つの異なる地・文化の間に横たわる距離をもちながら、いかに20世紀の国際作家として、政治と身体性とメディアをめぐって共通する軌跡をしるしたかについて語ってきました。そして、三島がまるで身体を媒介(メデイア)として読者・大衆と連なろうとし、テクストにおける身体の表現から、自らの身体を用いた演技へと向かった末、ついには現実の身体自体を引き裂く行為によって、自らのテクストと生活自体に終わりをもたらした軌跡について、20世紀作家の先駆であったダヌンツィオと絡めながら語ったのですが、多くの読者がダンヌンツィオの名前だけでなく、三島の作品の読みに関し、興味をもって集まっているようでした。

トーク後、聴衆と話してみると、大学で教えたり研究したりしている哲学者たち、若手研究者たちのほか、現在高校で教職についていたり、地元に残って仕事を続けている「哲学協会」員、哲学文学の博士たち、文学愛好者、市の文化助役、地元の高校の教員や校長など、いわゆる専門的な読者たちや地方の知識人たちが集まっていました。さらに、地元の一般の人々、若者からおじいさん、おばあさんまで、いろいろな人々が、熱心にトークに耳を傾けていました。中学生、高校生らしき姿も。

「文学」における「身体」を語った私の後は、人間の「身体性」がいかに所有とむすびつき、私有物として改変されうるものとして商品化されるか等、現代の消費社会における身体性について「パッションなき身体」のタイトルで魅力的な語り口で語ったエレナ・プルチーニ・フィレンツィ大学教授。夕食の休憩をはさんで、深夜まで、身体の「生と死」を世俗的な身体概念として神話等をひきながら語った、パドヴァ大学教授のウンベルト・クーリ氏と、ルガーノ大学教授のフランチェスカ・リゴッティ氏、二人のトークがありました。そこには聴衆から、どうしてキリスト教の死の超克について語られないのかという質問も。

翌日は、ローマ、マドリッドから到着した若手がまず夕方の時間帯を担当、「 生きられる 身体と場」について気鋭の若手哲学者らしい発表をしたトニーノ・グリッフェーロ氏と、ボーヴォワールから現代の医学的な性の不確実性にまで話が及んだ「身体のセクシュアリティ」は、イタリア、アメリカ、スペインと場所をうつしつつ研究しているヴェーラ・トリポーディ氏の発表がありました。韓国人のソプラノ歌手によるトスティ歌曲のミニコンサートをはさみ、最後がトスカーナからのフィロゾフィーとフィロロジーの二人によるトークでした。グレン・モスト氏は、アメリカ、ドイツを経て、ピサのScuola Normale Superioreでギリシャ文献学を講じている文献学者で、ギリシャにおけるホメロス、ソクラテス以前の哲学、プラトン・アリストテレスという3つのコンテクストにおいて、「身体」の語法の違いにどのような概念の違いを読み取るか、その問いのたて方の問題を明晰に語りました。ギリシャにおける精神と身体の合一の問題をうけ、続いて、アレッサンドロ・パニーニ・フィレンツェ大学教授が、近代以降の認識論における身体性・精神性の問題について語りました。

駒場でも今年1月にパフォーマンスを披露したリゴッティ氏と、今回のフェスティヴァルのトークで再会。彼女は、この夏、イタリア最大の文学フェスティヴァルが開催されるマントヴァと、哲学フェスティヴァルとして最重要のモデナの両方のメインスピーカーの一人。彼女のことばを借りれば、 身体をさまざまな角度から語り、それを広場と共有するという今回の催しも、この15年ほどのイタリアでの各地の「フェスティバル」と同様、広場のことばを探している哲学者の試みの途上にあるということのようです。それぞれが個人のスタイルの中で、ーある哲学者は優雅なサロンで語るごとくの魅力的な語り口で、別の哲学者は大学の大教室で初年級の学生たちに語りかけるようにー、アゴラと向き合い、語りあっていたことは確か。若手のトリポーディさんは開口一番、今までの専門家のシンポジウムでないからこそ、今回話すのは緊張すると告白しました。

イタリアでの広場の哲学の「流行」は、イタリア語における(ヨーロッパの言語における)分析的言語と日常言語の近さからも説明可能な現象かもしれませんし、聴衆がそれぞれの立場から、自分の考えを主張して、それぞれの言葉で質問する風景は、イタリア文化のあり方の一つの現れかもしれません。UTCPが東京で、渋谷にほど近い大学という場で、外に開かれた催しを開催してきたのとは別の次元のアゴラがそこにはあるように思われました。それはやはり、「場」の問題であり、「言葉」の設定でもあるでしょう。ギリシャの哲学者たちが弟子たちだけでなく、広場にむけて噛み砕いた表現を求められていた伝統に、立ち返るような試みであり、それが多くの指示と共感を得て、このイタリア政治の15年間の状況に風穴をあけているように見えるというのは、うがった見方でしょうか。ともあれ、視点と「言葉」の探求において、それが非レトリックであれ、新たな別種のレトリックもしくは新たなイルミニスムの創出であれ、興味深い実験であることと、 若手研究者やさまざまな文化の視点からの参加がもたらしうる寄与を実感しつつ、さらにこのような機会に参加したいという希望をもちました。

村松真理子(UTCP事業推進担当者)

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