【報告】「近代東アジアのエクリチュールと思考」2011年度第2回セミナー
中期教育プログラム「近代東アジアのエクリチュールと思考」のセミナー2011年度第2回目は「昭和10年代の画壇と崔承喜」と題し、李賢晙氏(イ・ヒョンジュン、発表者:比較・博士課程)、柳忠熙氏(リュウ・チュンヒ、ディスカッサント:比較・博士課程、UTCP)を中心に行われた。
(発表の部:6月3日、討論の部:6月10日)
【テキスト】崔承喜舞踊画
【副テキスト】朴祥美「「日本帝国文化」を踊る―崔承喜のアメリカ公演(1937~1940)とアジア主義(1)」『思想』(975号、2005年7月)
◆発表の部(6月3日)では、李賢晙さんがまず崔承喜(チェ・スンヒ、1911~1969)をめぐる日韓の研究状況を概観し、韓国舞踊史における崔承喜の位置について説明した。そのうえで、今までの崔承喜に関する研究が、主に「伝記」的な形式に基づいて行われてきたことの限界を指摘し、今回の発表では、崔承喜の舞踊活動と昭和10年代の日本の画壇との関わりにまで研究対象を広げて考察を行った。具体的には、崔承喜舞踊画のもつ意味を検討し、戦中の日本画壇と崔承喜との関係を探った。
こうした報告に対して、発表で取上げられた1942年と、1944年の2回に及ぶ帝国劇場での公演の背景について質問が出た。帝国劇場での公演が、崔承喜独自による企画というよりも、「崔承喜舞踊観賞会」に参加した人々、すなわち当時の日本の知識人との関わりによって可能となったものではないかという質問である。また、当時の画家たちが崔承喜を描いた動機が、彼らの芸術的な活動とどのように関わっているかについても質問があった。
この質問に対して李さんは、太平洋戦争中、崔承喜が帝劇で公演が可能だったのは、夫である安漠(アン・マク)の役割に加え、日本の「崔承喜舞踊観賞会」の支援が大きく関係していると答えた。また、舞踊演目の構成の面でも、人気の高かった朝鮮舞踊ばかりではなく、軍部の意向を取り入れ、日本舞踊を積極的にプログラムに採用することで、公演許可が下りたということも説明した。ただし、そのような状況の中でも、演目構成については崔承喜の意見も反映されていたことは確かで、それは「東洋モチーフ」を取り入れた創作舞踊などに現れていると強調した。
昭和10年代の画家たちの芸術活動における、崔承喜舞踊画を描くことの意味については、二つの事情が考えられると返答した。一つ目は、太平洋戦争の真っ只中で戦争画が支配的な画題であった時代に、舞踊をモチーフにした作品製作は、画家たちに創作意欲を引き起こす画題であったと考えられること。二つ目は、崔承喜の「チマ・チョゴリ」を着て朝鮮舞踊を踊る姿を描くこと、即ち、帝国の一部となっている植民地朝鮮の舞姫を描くことが、戦争のプロパガンダと関わっていることである。1943年という時代に崔承喜舞踊画が画題として認められ、さらに美術展覧会で展示されたのは、そのような背景に基づものであると発表者は指摘した。
◆討論の部(6月10日)では、柳忠熙氏が、崔承喜と日本知識人との関係について、特に崔承喜の芸術意識に対して、師である石井漠の芸術理念がどのように影響したかを問題にした。また、崔承喜の兄である崔承一(チェ・スンイル)や夫である安漠の思想が崔承喜に影響を及ぼしたという朴祥美氏の議論を取り上げ、その影響の具体的な内容を明らかにする必要があると指摘した。崔承一と安漠は、KAPF(朝鮮プロレタリア芸術家同盟)に所属しており、安漠が1930年代に入って絶筆した後、安獏は崔承一とともに崔承喜の舞踊活動を支えている。このような彼らの動きと、崔承喜の舞踊活動の変化に関係は見られるのか、さらに検討が必要だろう。
また、昭和10年代の崔承喜のあり方が、発表者のいうような「二重のオリエンタリズム」「エキゾチック」といった言説に回収されるかについても議論が起きた。さらに、崔承喜の絵の大半が「1943年」に集中していることについても、太平洋戦争中という時代背景をおさえたうえで、さらなる分析が望まれた。
(文責:小松原孝文、柳忠熙)