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【報告】「近代東アジアのエクリチュールと思考」2011年度第1回セミナー

2011.05.19 └セミナー, 齋藤希史, 小松原孝文, 柳忠熙, 近代東アジアのエクリチュールと思考

中期教育プログラム「近代東アジアのエクリチュールと思考」のセミナー2011年度第1回目は「「哀つぽい橋」の哲学―保田與重郎「日本の橋」を読む」と題し、小松原孝文さん(発表者:言語情報・博士課程、UTCP RA)、川下俊文さん(ディスカッサント:比較・修士課程)を中心に行われた。
(発表の部:5月6日、討論の部:5月13日)

【テキストⅠ】保田與重郎「日本の橋」『保田與重郎全集 第四巻』(講談社、1986年)
【テキストⅡ】リチャード・ローティ「第9章:連帯」『偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性』(岩波書店、2000年)

◆発表の部(5月6日)では、保田與重郎の「日本の橋」を「評論」として読む試みを行った。このテクストは、従来の研究では、論理を無視し、美しい橋について書き連ねたものであると語られることが多かった。しかし、初出の序言に「文芸の評論也」とあるように、このテクストは「評論」として読む必要がある。こうした視点から、「日本の橋」の導入部分がどのように読めるかということが、本発表の趣旨であった。
そこで明らかにされたのは、「日本の橋」と「羅馬の橋」の比較という、近代にありがちな「東洋/西洋」という対比の構図に従うように見せながら、それを解体していく試みである。例えば、冒頭で語られる「哀つぽい橋」は、「日本の橋」の典型とされながら、「アーチ」式の「混凝土」造りという、「羅馬」建築の特徴をもつものでもあった。こうして「日本」対「羅馬」といった二項対立は、すでに最初から崩されているのである。この後のところでも、「羅馬人の橋」が、歴史上の様々なコンテクストの中に置き直され、「羅馬」の意味が重層的に積み上げられていく。そのような主体の解体と構築の運動に、保田は「日本の橋」という方法を置いた。こうした視点は、ローティの示唆する「われわれ‐意図(we-intentions)」とも通底するように思われる。ローティは、「われわれ」という主体を、エスノセントリズム的な主体から切り離し、様々な他者へとつながる可能性を示していた。保田のいう「日本」も、理論的にはこのように様々な形で展開できるものであろう。
しかし、発表後の質疑では、このような「日本」という問題の立て方が、逆に「日本」というものを強化するのではないか、という疑義が提出された。それに対して発表者は、確かにここでは「日本」の脱構築が行われているが、こうした方法そのものに「日本」という名を掲げることは、エスノセントリズムやナショナリズムとはまた別の次元において、特権化された「日本」という主体を再構築し得ると応答した。

◆討論の部(5月13日)では、ディスカッサントにより、「日本の橋」の解釈として、発表者とは別の読み方の可能性が示唆された。ディスカッサントは、「日本の橋」というテクストが、保田の習作時代の「裁断橋擬宝珠銘のこと」から、繰り返し描かれていったことを示し、こうしたテクストの増殖に保田の「イロニー」が読み取れるのではないかと指摘した。それに対して発表者は、この増殖の過程もまた、発表者の提示した「日本の橋」の方法とすり合わせることが可能であると返答した。「日本の橋」では、「日本」や「羅馬」といった言葉の意味がずらされ、重層化されていくが、テクストが反復され、それによって「意味」の内実を組み替えていくことも、こうした意味の差異化へと開いていく試みだといえる。このような反復の中で組み替えられ、意味を増殖させていく試みは、「日本の橋」で用いられている方法と矛盾しないものと思われる。
しかし、ディスカッサントが提示した「裁断橋擬宝珠銘のこと」(1930)→「橋」(1935)→「日本の橋」(1936)→「(改版)日本の橋」(1939)というテクストの生成過程には、保田の大きな転機が見えてくるのではないか、という意見も提出された。つまりここには、はじめ「裁断橋」や「橋」として思考されていたものが、「日本の橋」として、「日本の」という冠辞が付加されて思考されるという、保田の転機を見て取れるのである。このような「日本」への固執が、どのような契機によって促されたのか、今後の課題として検討していく必要があるだろう。

(文責:小松原孝文、柳忠熙)

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