【UTCP on the Road】呉世宗
錘の切れた
水死人が
胴体を
ゆわえられたまま
群れをなして
浜に
打ち上げられる。
〔……〕
夏は
見境を持たぬ
死人の
顔を
おからのように
捏ねあげる
(金時鐘『長篇詩集 新潟』構造社、1970年)
知らされるべき情報が滞ったまま、秩序とパニックが奇妙に共存する横浜を離れて沖縄にいます。
引越し直前の3月11日にこのたびの大震災が起きましたが、その日は金時鐘氏の高見順賞の授賞式でもありました。関東では電車も車も動けない状況でしたので、残念ながら私は出席を取り止めにしました。しかし関西から授賞式に向かわれた金時鐘氏は、新幹線の中で缶詰になりながらも夜11時ごろ飯田橋の会場に到着し、吉増剛造氏や高見純文学振興会の佐々木幹郎氏など、少数の方々とささやかな授賞式を行ったようです。
後日、金時鐘氏は、「私は何事もすんなり行ったことがない。巡り合わせかなと思うが、大きな被害を受けた宮城や福島の人たちを前にすると、とるに足りないことです。」と新聞紙上で述べています(東京新聞2011年3月15日付夕刊)。
比較をすることなどナンセンス極まりないことですが、とはいえ「私は何事もすんなり行ったことがない」とさらりと言われた言葉の奥にある、思いや歴史的事実は想像されてしかるべきことだと思います。
不思議な気もするのですが、私が沖縄に引越した3日後に、金時鐘氏の沖縄での初めての講演があり、済州島四・三事件に関わり直接目撃したことや、虐殺を逃れ日本に渡ったことなどについて、沖縄という地で語られました。「すんなり行ったことがない」ことの(あまりに大きな)一つが語られたと言えます。
もう一方で、この度の震災を受けて、「巡り合わせ」という言葉にも私は引き付けられています。震災と金時鐘氏の経験とは、一見別のように見えて、強く結びつきあうように思えてならないからです。私の今後の課題と引き付けるならば、それは「旅」や「故郷」といった言葉に関わる問題です。
済州島での虐殺を逃れ日本に渡たることを、「旅」と呼ぶことはできないはずです。「旅」という言葉は、「故郷」といった言葉と結びつきながら、あまりに甘美なイメージがそこに充填されているためです。罪責感やうしろめたさを強く感じさせる何かを、元いた場所に残こしてしまう移動をどのように名づけるのか、また悦ばしくない移動をした/させられた者たちを何と呼ぶのか、さらには最悪の状況下を移動さえできない人々とはどのような者達なのか。植民地と震災。簡単には結びつかないにしても、どこかで繋がってくると考えています。今後の課題です。
一年間という短い期間でしたが、齋藤希史先生のプログラムに所属して研究できたことは、私自身の問題関心のパースペクティブを大きく広げてくれるものでした。漢字文というシステムあるいは漢文脈が東アジアの近代化の中でいかに変容していったのか、という発想は、得てして日本語との関係の中で捉えられがちな朝鮮語を漢文脈というより広い視角で再考させるように促してくれるものとなりました。
また同じプログラムのメンバーである守田さん、津守さん、裴寛紋さんが、自らの研究テーマを、プログラムのテーマ、そして他のメンバーのテーマとくっつけたり、離したりしながら思考を深めているのを見て、とても勇気づけられました。
UTCP拠点リーダー・小林康夫先生、事務局長・中島隆博先生は、あまり出席率のよくないながらも、いつも気にかけてくださりました。大変感謝しています。事務の立石はなさんは、事務的手続きが全くできない私をそっとサポートしてくれました。ありがとうございました。
7000億以上の「おもいやり予算」が米軍基地に配分された沖縄では、先日、米軍用機がフレアを誤射しました。「おおわが友たちよ、一人も友がいない」。
この度の震災で亡くなられた方々に合掌。
済州島四・三事件六十三周年の日に。
呉世宗
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