【報告】UTCP International Graduate Student Conference 2011 "Reconsidering the Dynamics of 'Boundaries'"
去る2011年3月5–7日、UTCP International Graduate Student Conference 2011 “Reconsidering the Dynamics of ‘Boundaries’: Subjectivity, Community and Co-Existence” が開催された。
このイヴェントはUTCPに所属する博士課程の学生が主体となって企画・運営を行なった国際学術学会である。5-6日のカンファレンスでは、基調講演者にカリフォルニア大学バークリー校のTrinh T. Minh-ha教授を迎え、公募によって集まった6パネル計18人の発表が行なわれた。7日には、Trinh T. Minh-ha教授を囲みワークショップを行なった。全3日間をとおして、哲学から政治学、文学から現代美術に至るまでの多様な領域を横断しながら活発な議論が交わされた。
〈境界boundaries〉。ひとまずそれは、あるものの限界を示すとともに、なにかとなにかを分割する線ということができる。それは、個人と個人との〈境界〉であり、共同体と共同体の〈境界〉、国家と国家との〈境界〉である。あるいは、人間と動物の〈境界〉であり、現実とイメージの〈境界〉であり、あるいは過去・現在・未来の〈境界〉である。私たちの周りには、数多くのさまざまな〈境界〉が潜在的/顕在的に引かれている。
〈境界〉は、その内と外に安定をもたらすが、しかし同時に、〈境界〉をめぐって緊張や相違、ときに悲劇的な衝突を起こる。しかし、そのような緊張・相違・衝突のただなかにおいて、ときとして〈境界〉が揺れ動き、あるいは複数化し、あるいは機能不全におちいる瞬間がある。私たちはこのような現象をどのように理解すればよいだろうか。そして、そこで働く力学をいかに記述すればよいのだろうか。世界に遍在しているあらゆる〈境界〉の力学をめぐって、私たちはどのような思考をつむぎ出すことができるのだろうか。これがカンファレンスで探求したかった問いであった。以下、それぞれのパネルについて簡単に紹介したいと思う。(詳細な開催趣旨や各発表のアブストラクトなどに関しては、ぜひ公式サイトをご覧いただきたい)
【Panel A: Community in Action】
初日5日に行われたパネルA「Community in Action」では、中島隆博准教授(UTCP)をモデレーターに迎え、夥しい紛争と複雑なアイデンティティ・ポリティクスの渦中に置かれた現代の「共同体」の姿をめぐり、三つの発表が行われた。大池惣太郎(東京大学)による発表「Ethos of Community, Ethos of War: On Jean-Luc Nancy’s Thought on Community」は、湾岸戦争時にジャン=リュック・ナンシーが「主権的な戦争」という形象が回帰していると指摘したことに注目しつつ、「主権を現実化するテクネーとしての戦争」が、免疫的に他者の排除を行う今日の領土的共同体のエートスとなっていると論じ、それとラディカルに対立するナンシーの「sharingの存在論」の重要性を強調した。続いて、Mohamed Omer ABDIN(東京外国語大学)は、「The Right to Self-determination : A New Challenge to the National Identity in African States」と題した発表で、2005年のCPA成立を経て今年二月に決定されたばかりの南部スーダンの分離独立というアクチュアルな問題について報告し、平和への険しい道のりを歩むアフリカ大陸の政治情勢において、この新国家の設立が抱える諸問題と今後の共生の可能性を問う貴重な議論の場を開いた。そして、亀田真澄(東京大学)は、「Ethnic Identity Worn on the Body: the ‘Yugoslav’ and the Minority Community」において、現在も続くポスト・ユーゴスラビアの交錯した政治情勢のなか、クロアチアからの分離と再同一化の危ういバランスのもとで形成されるカトリック・マイノリティ共同体「Bunjevac」の事例を取り上げ、言語や民族衣装などを通じた民族アイデンティティの形成により、更なる「境界」が生み出される現場の調査報告を行った。(報告:大池惣太郎)
【Panel B: Travel, Language and Modernity】
パネルB「Travel, Language and Modernity」では、モデレーターに高田康成教授(UTCP)を迎え、近代日本の諸様相を「旅」「言語」「近代」の視点から考察した三つの発表が行われた。岩崎正太(東京大学)による発表「A Moment in Everyday Life: A Study of Kojima Nobuo’s ‘School of Stuttering’」、小島信夫の短編「吃音学院」を取り上げ、そのなかで描かれる「吃音」という言語現象が江藤淳のような「土俗」と「近代」の対立ではなく、むしろ「人間」と「言語」の関係の問題として考えられることを指摘した。「Borders of Language, Nation, and City in the Writings of Yi Sang」と題されたTimothy Unverzagt Goddardさん (UCLA/東京大学)の発表は、大戦間期の詩人・李箱(Yi Sang)を取り上げ、かれのテクストが言語的・文化的境界を駆け抜けながら、「東京」という帝国主義的都市空間を揺さぶろうとしていたことを明らかにした。Maja Vodopivecさん(東京外国語大学)の発表「Rereading Kato Shuichi – Travel as Unfinished Modernity Site」は、評論家の加藤周一を取り上げ、かれの思想をクリフォードやサイードなどの理論を経由しつつ分析し、「旅」という行為のもつ批評的な力を提示した。(報告:岩崎正太)
【Panel C: Politics of Community, Inclusion and Exclusion】
このパネルでは、さまざまな「コミュニティー」が政策の制定及び実行の過程においてどのように構築されているのかをフィールドワークを通して考察する三本の報告が行われた。政策上に現れる共同体と実生活において人々が築き上げている人間関係の間には差異が見られる。この差異をどう理解するべきなのか。金原典子(東京大学)の報告“An Ethnographic Analysis of `Muslim Communities` in Recent British Policies”は、近年のイギリス政府による”community”を政策の単位とした政策文書を分析。”Muslim community”という共同体の認識枠組みを採用することで、それを越えた人々の関係の多様性が見えにくくなっており、また、政策自身がそのようなコミュニティーを再生産する結果となっている事実を指摘した。Peter Mühlederの報告”Undōkai: A Cultural Performance between Nation, Community and Individual”は、政府が掲げるナショナルな共同体意識や地域のコミュニティーへの帰属意識、そして個人主義的な意識の形成が、日本の学校の運動会においてどのように顕現しているのかを考察した。学校の教師及び生徒は、以上の理念を現場の実態に合わせて選択的に採用している事実が指摘された。ここからは、地域社会と中央政府の政治的な関係を窺い知ることができる。Eljomaの報告”Bilog Boundaries”は、日本に滞在するフィリピン出身移民が、日本の法律の形に合わせて自己を定義していく様子、またその理由を考察した。例えば、日本で労働を行うためにフィリピンにおいて既婚であるにもかかわらず、日本で新たな婚姻関係をもつケースが見られるという。多様な政治的関係において人々の自己意識や共同体意識は構築されるため、個々の関係の特殊性を観察することが重要であるが、その作業には絡まった糸をひとつひとつ解きほぐすような丁寧さが求められることを改めて実感した。「共生」の可能性を具体的な形で考える上で政策における単位、つまり「'何」が共生するのか、を再考する必要がある。既存の共同体(”community”)は果たして絶対視されうるものなのか。そのような概念はどのようにして生まれ、どのような社会的な影響を及ぼしているのかを考えていくべきであろう。(報告:金原典子)
【Panel D: Thresholds in Images】
ヴィジュアル・イメージにおける「境界」というテマティックを、空間インスタレーション、写真、映画という三者三様のメディウム・表現手段に即して論ずるパネルである。May Chewさん(クイーンズ大学)の発表は、《He Named Her Amber》と題された近年のインスタレーション作品――19世紀の住宅であった展示空間内に、かつての住人の所有物であったと思われるオブジェを配したもの――、またこの作品の鑑賞経験が、現代のカナダの政治的・文化的なコンテクストとパラレルな関係にあることを看破したものである。戦没者の「遺影」と、天皇を初めとする王権表象としての写真を取り上げたJeehy Kimさん(ニューヨーク州立大学)の発表は、「メモリアル」としての写真が政治性を帯びていくプロセスを、日韓の事例に即して分析したものである。従来の写真研究のいわば「聖典」であった、バルトやパースら西欧の理論の安易な援用を避け、オリジナルな分析枠組を構築しようとする氏の姿勢は、非常に意欲的なものであった。続くNamhee Hanさん(シカゴ大学/立教大学)の発表は、黒澤明の映画作品『天国と地獄』において、東京オリンピック直前の横浜が、「境界」の都市として描かれていることを実証したものである。氏はさらに、ワイドスクリーンという新技術、それに伴うカメラワークやレンズ仕様などのフォーマリスティックな側面に着目し、新たな視覚と表現のテクノロジーが、都市光景の可視性/不可視性の表象の態様と密接に連関したものであることを示す。(報告:小澤京子)
【Panel E: Body/Skin】
パネルE「Body/Skin」では、内野儀教授(UTCP)のモデレーターのもと、身体およびその表層である皮膚という境界面をめぐり展開される表象の問題について、文化・芸術・政治の諸領域にまたがった三つの発表が行われた。Hayley McLARENさん(一橋大学)による日本の伝統的「彫物」文化に関する発表「Living Horimono: Modes of Agency of the Tattoo and Tattooed Body」は、タトゥー図像の象徴的な機能を分析する従来型の民族学的アプローチから離れ、アルフレッド・ジェルによる「アクター」概念と自身の「下町」文化調査に基づく事例を参照しながら、生身の身体と相互的な関係を結ぶ、自立した行為者としての「活ける彫物」の位相を浮き彫りにした。次にBasia SLIWINSKAさん(ラフバラー大学)の「Transgressing the Threshold Between the Self and the Other: the Body in Genderland」は、「鏡の世界」を発表の通底的なモチーフとして、Marc QuinnによるBuck and Allanah (2010)やJess DobkinのMirror Ball (2008-2009)といったジェンダーと身体表面の問題に関わる現代の彫刻、パフォーマンス・アートを具体的に分析し、ジェンダー・アイデンティティの変容と解体の可能性をアートの現場から模索した。そして吉田裕さん(一橋大学)は、「Metonymy of Bodies, Memories of Skin: The Post-apartheid, or the Unfinished Decolonization in Zoë Wicomb’s Playing in the Light」において、南ア人女性作家Zoë Wicombの小説Playing in the Light (2006)を論じ、主人公Marionが自分と両親の記憶と歴史を、「不気味なもの」としての自らの女性の身体や「皮膚」に刻まれた記憶によって回復することを明らかにし、忘却に対する抵抗装置としての身体の機能に光を当てた。(報告:大池惣太郎)
【Panel F: Women and Modernities】
(複数形としての)近代において、女性という一方のジェンダーが直面した「境界/越境」の問題を扱ったのが、このパネルである。当初予定されていたインドからの発表者が来日できなくなったため、偶然にも日本人女性3名のパネル構成となったが、発表内容は時代・地域・テーマ・方法論ともに変化に富むものであった。
Nihira Fukumiさん(東京大学)の発表は、ユダヤの出自を持ち、メキシコ移民家庭に生まれ育った女性詩人Gervitzの自伝的連作「Migraciones(《移民》の複数形)」のテクスト分析を通して、彼女の作品群に通底する「複数の境界性の融合」というテーマを指摘したものである。
続くSaeki Eikoさん(ラトガース大学)の発表は、江戸時代の「産科医学」黎明期において、「人間」「生命」「身体」に対する認識がいかに変容したのかを、母体と胎児の双方に着目し、当時の医学書や図像といった一次資料の精査を通して明らかにしたものである。
Shibahara Taekoさん(龍谷大学)の発表は、第二次大戦直前の時期において、日本の女性参政権運動家たちが英文の雑誌刊行を通して、西欧のフェミニストたちと「transnational」な対話関係を樹立していたことを実証し、この時代のステレオタイプである「国家レベルでの右傾化と国粋主義」といった傾向から逸脱するような動向が、日本の女性たちによって担われていたことを示すものであった。(報告:小澤京子)
Trinh T. Minh-ha教授の基調講演は、5日の最後に行われた。本カンファレンスのテーマに深く響きあう講演であった。
【基調講演】
Trinh T. Minh-ha教授の基調講演は、2010年出版のElsewhere, Within Here: Immigration, Refugeeism, and the Boundary Eventの内容に基づいたものであった。Trinh教授によれば、境界線を引くことは政治的な行為である。境界内の安全を護り、安心を得ることを意図して作られた壁は、同時に不安をも生み出す。そして壁は内と外を隔てるが、内側にも外的なものを作り出す。移民や難民は、ある社会に存在しながら「外」なるものとして扱われるようになる。人々は物理的にある地域に存在しながら、他の地域とのつながり、または「外側にあるもの」を保持している。境界線について語ること、それは「外的なもの」を具現化し排他性を生み出す行為でもある。では、常にカテゴリーという境界が明確化された思考枠組みを用いて議論することが求められる人文社会科学において、私たち大学院生はどのようにして世の中を理解すればよいのか。Trinh教授の答えは、“not to speak about, but to speak nearby.” つまり、何か(誰か)について自分とは全く関係ないもの(人)として扱うのではなく、あたかも自分の身近にいる大切な人-例えば母親のように-語ることだと言う。また先生は、相手のことを「聴く」ことがとても重要であると述べる。自分の聴きたいことだけを聴くのではなく、今の自分には聞こえない音、または無音の「静」、を聴くことに努める必要性がある。そうする上で助けとなるのは、親しみのない場所に自らを置き、普段聞きなれない音に耳を傾けることになる旅や移動だという。慣れない音を聴くことは非常に難しいけれど欠かせないことである。特に人文社会科学においてはそうであろう。Trinh教授は優しい声で詩的に、しかし分かりやすく、大切なことを教えてくださった。(報告:金原典子)
このようにカンファレンスでは充実した発表と活発な議論が行なわれたのが、しかしながら、それらのすべてを理解し消化できたとは言い難い。分野も対象も異なる発表が並び、そこには確かにいくつもの断裂や異和、不協和音があったと思う。だが、これは決してカンファレンスの失敗を意味しないのではないか。なぜなら、そのような断裂や異和、不協和音においてこそ〈Boundaries〉が問われているのであり、当日の会場は、そのような〈Boundaries〉を越えてなんらかの接線を引こうとする意志で貫かれていたと思う。相対性や多元性、複数性をたんに肯定するだけでなく、それらを結びつけようとしていたと思う。テーマを考えた一人としてたいへん勇気づけられた瞬間であった。
カンファレンスの開催までには多くの時間と労力を要し、数知れぬ幾多の困難があった。一から構想を練り上げ、すべてを手探り状態から作り上げなければならなかった。だが、妥協することなく開催できたのは、私たちの無理な願いを聞き届けてくださったUTCP内外の先生方、つねに辛抱強くサポートしてくださったスタッフの方々の存在があったからである。また、学外の多くの方々のお力添えのおかげである。本当にありがとうございました。
この3日間をとおして、さまざまな人や研究に出会うことができた。それは、か細い糸で点と点が繋がったに過ぎない、限りなくちいさなネットワークである。このミニマルなネットワークを今後どのように展開させていくかは、参加したそれぞれの手に委ねられている。着実に未来へと繋げていきたいと思う。
(全体報告:岩崎正太)
【UTCP Graduate Student Conference Committee 2011】
石垣勝、岩崎正太、大池惣太郎、小澤京子、金原典子、裴寛紋、安永麻里絵