【報告】UTCP2011年度スタートアップ「カタストロフィの哲学―いま哲学に問われること」
2011年4月15日に2011年度スタートアップ「カタストロフィの哲学―いま哲学に問われること」をおこないました.テーマはカタストロフィ.1ヶ月前,3月11日の地震に端を発し,いまなお進行中の災害にわたしたちはどのように向き合うのか,この問いから2011年度のUTCPをスタートさせたいとおもいます.
わたしたちのように哲学をバックグラウンドにしている者がいまのこの時期に現在進行中の災害について発言するということ,それはいったいどういうことなのでしょうか.ミネルヴァのふくろうは黄昏になって飛ぶといいますが,およそ哲学者はなんらかの事態が収束してから登場して俯瞰的な視点で事態の評価をおこなうという役割を伝統的に負ってきたようにおもいます.だから,現在進行中の災害について哲学者はなにも語らないほうがよい,そのほうがより自分の役割に誠実なのだ,とも考えられるかもしれません.しかしながらその一方で,わたしたちはいまこそ発言をすることの重要性と責任を感じている,あるいは,発言を控えているうちに言葉が内側から溢れでてしまいそうになっている,こうしたこともまた言えるように思います.
UTCPはとにかく語りだすという選択をしました.わたしたちが直面しているのは言葉を奪う事態.こういう事態だからこそ大学から,駒場から,ふたたび言葉の動きを紡ぎだそうと,それを始める場としてこの会を開催しました.わたしたちは言葉を発する努力をしなければならない,とそのように小林康夫さんはいいます.言葉を発することがとても困難な時期であるからこそです.
しかし言葉を発しようとするやいなや,わたしは震災の後この一ヶ月いったい何をしてきたのだろう,と反省せざるをえません.そして,なにもできなかった,いまも全然できていない,という虚しさがあります.それはたんに個人的な感情ではなく,哲学研究者として,駒場キャンパスに所属するものとしてそう感じます.これまで蓄えてきた知のありかたを個人としても集団としても再考しなければならないのではないかと思うのです.駒場キャンパスは全人的な教養的知を醸成する場です.ヒューマニティーズとサイエンスが隣り合わせなのが駒場です.化学が専門の永田敬さんは,化学も世界の状態を表現するという意味で言葉であると,そして化学という言葉は「現実の世界の状態について,〇〇は~だ」ということはできるかもしれないが,「将来の世界についてそれがどのようになるのか」については語ることができないのではないか,と言います.「自分の言葉を社会におけるどういう場面でどのように使うのか」という永田さんの問いかけは,科学者のみならず,ヒューマニティーズに携わるわたしたちにも向けられています.そうした自然科学者からの問いかけに常に晒され応答を求められるのが駒場のヒューマニティーズのありかたです.わたしたちはもう一度それを認識し,駒場的知のあり方の再構築を行う必要があるように思います.
駒場から言葉を発する試みは,実はすでに行われています.長谷川寿一さんは先日の東京大学の入学式で新しく駒場キャンパスにきた新入生に向けて,震災前と震災後のメンタリティの変化,それを戦後社会の終焉という歴史的観点から捉えること,そのうえでいま希望とはなにか,こうしたことを語りました.長谷川さんのこの話を受けて中島隆博さんが竹内好を引き合いに出しながら語ったことが印象的です.わたしたちは戦争が終わっても,きちんとした終わりの後を生きることができなかった.わたしたちのこれまでの歴史にはそれを為しうる言葉がなかったのではないだろうか.そうだとするならば,わたしたちはこの震災を機にそれを得ることができるのでしょうか.
わたしたちの言葉を発する努力はまだ始まったばかりです.今回のUTCP2011年度スタートアップ「カタストロフィの哲学―いま哲学に問われること」はその端緒.今年度,UTCPでは「カタストロフィの哲学シリーズ」を継続的に開催する予定でいます.今後の予定としては,災害と情報の問題,災害におけるケアの問題(あらゆるものが破壊されることで,だれもが介護を必要としていたのだという気づかいの構造が可視化された,と市野川容孝さんは言います),原子力と市民参加型テクノロジーアセスメント.その都度,真摯に哲学がカタストロフィにどのように向き合うのかを追求します.
中澤栄輔(特任助教)