【報告】パトリック・ヌーナンさん講演会 “Being By Others: Cinema and Subjectivity in Yoshida Kijū’s Film Theory”
2011年4月26日,カリフォルニア大学バークレー校の若手でいま日本に滞在しているパトリック・ヌーナンさんの講演会をおこないました.テーマは吉田喜重とかれの映画理論.タイトルは “Being By Others: Cinema and Subjectivity in Yoshida Kiju’s Film Theory” です.
UTCPのPD研究員であるマーク・ロバーツさんも,映画の批評を専門にしています.今回のヌーナンさん講演会はそのロバーツさんがオーガナイズして,日本国内在住の海外若手研究者が集って議論を深める研究集会となりました.映画批評の分野の研究発表を評価する力などそもそもわたしにはありませんけれど,ヌーナンさんのプレゼンテーションを聞いて感じたことを書いていきたいと思います.なお,ヌーナンさんの今回の発表は今年度提出予定の博士論文の一章に基づいているとのことです.まだ未公刊のドラフトということですから,発表の内容を詳細に追うことはしないようにしたいとおもいます.
さて,ヌーナンさんの研究対象は映画監督,吉田喜重の映画理論です.吉田喜重(歴史的な人として呼び捨てにしますが)は1960年に『ろくでなし』でデビュー.大島渚とともに映画の刷新を図る日本ヌーヴェルヴァーグの代表者としての地位を獲得しているひとです.
ヌーナンさんは今回のプレゼンテーションのなかで,ふたつの映画の場面を見せてくれました.ひとつはそのデビュー作である『ろくでなし』の最後のシーン.もうひとつは『秋津温泉』でのワンシーンです.
『ろくでなし』の最後のシーンは,お金のはいった(実はただの紙切れ!!)バッグをせっかく奪ったのにわざわざ返すと言い,逆上した強盗仲間に拳銃で撃たれつつも「約束は守ったからな」「これでもうつながりはないんだからな」(引用は記憶に頼っているため不正確です.すみません.)と女に渡す,なにか非合理的な,でもなんとなくそれはそれで筋がとおっているようにも思わせる男のシーンでした.『秋津温泉』でのワンシーンというのは,温泉宿での情事のさなか,女が男に「ねぇ,一緒に死んでちょうだい」(同じく引用不正確)と迫るシーン.どちらもとても印象的です.
ヌーナンさんが着目するのは吉田喜重の映画論における主体(あるいは主観性)の思想.すでにタイトルにも現れていますが,「他者によってあるような主体」という考えかたが吉田喜重の思想に特徴的です.そうした自己論あるいは他者論が,どのように吉田喜重の映画に反映されているのか,一般化すると,作家による映画論が自分の作品のなかでどのように具現化されているのか.それをくっきりと取り出すことはとても難しい作業のようにおもいました.ヌーナンさんの発表は非常に詳細なサーベイであり,とても多くのことを学ぶことができます.しかし,わたしが最後まで疑問に感じたのが,作品のなかでどのようにして作家の思想(それも純粋哲学といえるようなもの)を表現するのか,もしそれが表現されているとしたらわたしたちはどのようにしてそれを見つけ出すことができるのか,ということでした.
アブストラクトはイベント告知のページに載っています.こちらからどうぞ.
中澤栄輔(特任助教)