【出張報告】「The Task of the Critic」西山達也
2011年3月末に北米に出張し、イェール大学で開催されたカンファレンス「The task of the Critic」(3月25-26日)に参加しました。
今回のカンファレンスに参加した目的は、「批評=批判」概念の再検討を軸とした人文学の展開を考えるうえで、20世紀における批評研究の中核のひとつをなしたイェール大学での研究交流を行うことにありました。「批評=批判」という行為、あるいは「クリティカルである」ことが何を意味するのか、批評という行為とその行為者(批評家)、そしてその対象とのあいだにはいかなる関係(倫理的関係ないし実存的関係)が存在するのかをめぐって、活発な議論が交わされました。
(司会を務めたアンナ・ヘンケさん)
この会に参加したもうひとつの理由として、基調講演者がアンジェイ・ウォーミンスキー教授であったことが挙げられます。氏はポール・ド・マンの弟子で(『美学イデオロギー』の編者)、ポーランド生まれ、パリの高等師範学校やフライブルク大学でも学び、現在はカリフォルニア大学アーヴァイン校で教鞭を執られています。ヘーゲル、ヘルダーリン、ハイデガー、ブランショ等に関する氏の論攷からは、私自身、これまでの研究において多くの刺戟を受けてきました。"The Future Past of the literary Theory"と銘打たれた基調講演は、西洋思想における批評理論の源泉へと遡行する試みとして、氏の最新の研究であるアリストテレス『詩学』の読解を要約したものでしたが、これはたんに批評概念の起源を思想史的に確定するという作業ではなく、アリストテレスのテクストそのもののなかに、そのテクストの可能にする批評理論を、まさしく批評する可能性を読み込むという作業です。だとすれば氏の取り組みは、読むことを通じての、批評理論そのものへの抵抗を意味すると言えるかもしれません(ポール・ド・マンの言うところの「理論への抵抗」)。こうした抵抗の核となるのが言語そのもののもつ批判的な力(デュナミス)であり、このことが『詩学』のテクストにおいて用いられる「デュナミス」という語に着目することで明らかにされていました。
(中央がウォーミンスキー教授、右は同じパネルで発表した比較文学科のケヴィン・ホールデンさん)
私自身は、「翻訳者としての批評家の使命」というテーマでの発表を行いました。具体的にはヘルダーリンとブランショとをとりあげながら、「翻訳」という行為に内在する批判的な力をどのような形で翻訳者が、あるいは批評家が顕在化させうるかを検討しました。一方で、ヘルダーリンは、古代ギリシア語の断片的テクストの翻訳を通じて、この批判的な契機の顕在化を突き進め、他方でブランショは「断片的」なテクストを紡ぎだしながら、断片そのもののもつ批判的な力を捉え返します。発表では両者の関係を問い直す端緒を示すことができたと思います。
発表に関しては、特に「断片的なもの」のもつ批判的な力の由来と根拠に関して、ウォーミンスキー教授や他の参加者、とりわけ、ライナー・ネーゲレ教授からコメントを頂くことができました。ネーゲレ教授はリヒテンシュタイン出身で、独仏の哲学と文学に深い造詣をもち、著書の『Echoes of Translation:Reading between Texts』からは、私の研究テーマである「翻訳の問い」をめぐって多くの示唆を受けていました。カンファレンス全体を通じて、討論者たちが哲学と文学の境界、あるいは英語、フランス語、ドイツ語といった言語の境界を当たり前のように横断していたことは印象的でした。同世代の研究者たちとの意見交換ができたこと、そして何よりも、テクストを「読む」という行為を通じて言葉を発し、読む行為に対するスタンスの違いはともあれ、言葉を共有することができたのは大きな収穫であり、この領域横断性、あるいはむしろ領域開放性の実現にこそ、批評の可能性が賭けられていると再確認した次第です。
3月上旬以降のクリティカルな状況での渡米であったため、様々な場所で様々な人々から励ましの言葉を頂き、連帯と共感の有難さを痛感しました。この出張の意義はいまだ咀嚼しきれていませんが、本年度のUTCPの活動を通じてこれを考え続けたいと思います。
(ポール・ド・マン)