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【報告】ロベルト・エスポジト講演会「装置としてのペルソナ」

2011.03.29 村松真理子, 小林康夫, 大橋完太郎, セミナー・講演会

2011年3月9日、東京大学駒場キャンパスにて、イタリア人文科学研究所所長ロベルト・エスポジト氏を招いての講演会が行われた。エスポジト氏のほかにも、司会者に京都大学教授の岡田温司氏、ディスカッサントにノースカロライナ大学のフェデリコ・ルイゼッティ氏を迎えた本講演会は、計3時間以上にもわたって議論が行われ、彼の思想のアクチュアリティを吟味する格好の機会となったと言えるだろう。

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 まず最初に司会である岡田氏から、イタリア現代思想の総合的な解説とその中でエスポジト氏が占める位置取りについて丁寧な説明が与えられた。岡田氏の指摘によれば、エスポジト氏のみならず、アガンベンやカッチャーリ、あるいはヴァッティモなどのいわゆるイタリア現代思想が注目される原因として、イタリアが「国民国家」として良くも悪くも機能してこなかったことにまつわる地政学的な条件があげられる。中心的権力不在のなかから生まれたこれらの思想が、「ポスト帝国」的な時代情勢と適合する部分が少なからずあったのではないか、と。そのなかでもエスポジト氏は、「生政治 bios」「免疫 immunitas」そして「共同体 communitas」を題に掲げた三部作を中心に、フーコー以降の生政治の問題を共同体論へと展開しつつ、生命の脱構築を基盤にしたポストヒューマン的な政治哲学を構築していることにその特徴がある、と紹介された。

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 基調講演でのエスポジト氏の講演内容は、「ペルソナ persona」という概念の審級に深くかかわっている。人格、位階、あるいは仮面とも訳されるこの語は、その多義性のなかで、とりわけ法哲学的なコノテーションを前面に出しつつ、西洋思想のなかで中心的な立場を担ってきたと分析される。エスポジト氏によれば、ドゥルーズやアガンベンが「装置」の名で批判してきたオイコノミアを基礎づけていたものこそがこの「ペルソナ」にほかならないのであって、そこにおいて「神/人」「魂/肉」の二分法が類比的に構造化されたとみなされる。主体と非主体の存在論的差異を基礎づけるこの構造が、後者を「堕落」や「病」「動物」と名付けてきた当のものでもあるのだ。
 また。この概念は歴史的に見てローマ法の体系とも接点を持っている。何が「ペルソナ(=一個人)」であるのかという法的な指標によって、奴隷と自由人、さらには生来の自由人と解放奴隷の自由人の区別が次々と作りだされる。すなわち法的な機能におけるペルソナとは、規範と例外とを無限に作り出すことで、あらゆるものをその無限の権利における二分法へと取り込んでいく不断の弁証法的プロセスを意味することになる。そこでは法=権利的な統合や普遍化は、例外者を排除し、次いでそれをまきこみながら、さらなる統合を志向し続ける。エスポジト氏の分析はこの仕組みを、「人間化」のメカニズムに内在する「非=人間化(脱ペルソナ化)」として浮かび上がらせる。つまり非=人間は、ペルソナ概念が促してきた主体化のプロセスの背面で動き続けている。それは抑圧され、少なくとも概念のレベルにおいて、「完璧な人間」のもとで従属を余儀なくされる。現代における安楽死や障害にまつわる問題も、こうした潮流のなかで考え直すこともできる。

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 「人間/非人間」の不断の弁証法に抗して、エスポジト氏がその突破口として本講演で持ち出したのは、シモーヌ・ヴェイユの思想である。古代ローマを参照しながらヒトラー主義の起源を分析していくヴェイユは、そこにローマ法的なペルソナの動きが共通して存在していることを見出すにいたる。ヴェイユは非=人間的な暴力が人間の可能性の条件を構成していることを冷酷に指摘しながらも、人間の内部に宿る別の非=人間、すなわち「神聖なもの」をも同時に希求する。異なる「内部」、異なる「非=人間」をどのように手繰り寄せ、主体を変換できるのか、エスポジト氏がヴェイユに見出した可能性は、なおも詳細に吟味される必要があるだろう。

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 ルイゼッティ氏によるコメント、および会場からの質疑についても簡単に触れておきたい。ルイゼッティ氏はエスポジト氏による「非人間」の思想をフランス現代思想の系譜のなかに位置づけ、エスポジト氏の思想のうちに「大陸/英米」とは異なる別のヨーロッパ性を指摘する。これは冒頭で述べた岡田氏の指摘とも重なることではあるが、「イタリア」の名のもとに、異なる近代、異なる哲学、異なる思想が胚胎していたのだ、という指摘は、デリダが『ならず者』内で行った哲学におけるラテン起源の問題とも関連するものであり、きわめて興味深いものでもあるだろう。この点に関しては、会場からの質疑で、「異なるヨーロッパ」ではない「ヨーロッパの他者」たる日本人の思想に対して「ペルソナ」の脱構築は意義を有するのか、という指摘があったことも付け加えておきたい。ほかにも拠点リーダーの小林からは、ヴェイユの思想にある宗教性というものを、非人間的ということで中性化することが許容されるのか、という根源的な問いかけがあった。報告者である私大橋も、ペルソナの脱構築が徹底し、みなが非人間になった世界は、はたしてどの程度暮らしやすいものなのか、という問いを提起させていただいた。批判に対する反批判を肯定的価値におきかえるとき、さらなる概念的布置の変容を促進させる必要があると思ったのは、私だけだろうか。
 とまれ、平日の早いうちから開始され、3時間半もの長丁場になったにも関わらず、100人を超える方にご来場いただき、大盛況のうちに本講演会を終えることができた。エスポジト氏、ルイゼッティ氏、当日見事な通訳を披露してくださった村松真理子氏、そして何より、今回の氏の招聘に関して尽力された岡田温司氏とそのサポートスタッフの方々に、心からの御礼を申し上げる次第である。

(大橋完太郎)

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