【報告】鈴木広光「印刷の思想−東と西」
2011年1月21日(金)、鈴木広光先生(奈良女子大学)の講演会「印刷の思想――東と西」を駒場キャンパス18号館コラボレーションルーム3にて開催しました。
印刷にはいかなる思想あるいは思考が働いているのか.鈴木氏はまず,アコスタがインディオを三階層に分け(最も上層に入るのは文字を充分に操る人々である),各階層の人々が理解しようとした世界認識と,非西欧社会におけるカトリック布教に伴う印刷・出版物の状況とが対応している点を指摘した.講演タイトルの「東と西」は,東洋と西洋との比較といった意味ではなく,いわば「印刷時代(大航海時代―非西欧世界に印刷術をもたらされる契機)」において,接触の瞬間に起こった混沌や葛藤に注目するという意味で使いたいということであった.
鈴木先生によると,植民地に導入された西欧式活版印刷術の特徴は、端的に言ってREDUCIRというキーワードに集約される.そもそもREDUCIRとは,①ことばを減らし,単一言語に帰属させる新大陸での言語統一政策、②文字化・文法化の二つの方策を意味するものである.印刷の基盤となる思想についても,①少数の単位への還元(音声言語→文字化→活字化)、②多様な語法や綴り字から一つの卓立(他を排除),③少数の抽象的単位の組み立て(composition)による均質空間の形成としてその特徴を説くことができる.
以上のような思考が通用しなかったところが中国の場合であった.伝統的な木版に依存していたからである.また日本の場合,漢字かな交じり文の印刷がキリシタン版により初めて製作されるのだが,そこにおいて連綿風の再現など,時を経ずして日本的に改善されていく様子が認められる.つまり,東洋の印刷は大量複製のためといった観点より,少量多数の書籍のためであり,テクストの固定化としての意味の方が大きい.そして印刷そのものに様式性を求める点において,西洋の印刷の在り方とは根本的に異なるのである.
とくに,例としてあげられた嵯峨本『伊勢物語』の古活字版(慶長13年初版・再刊)は,まるで写本を見るような驚くべき印刷物であった。初刊・再刊(活字数2,131・2,714)を比べてみると,同一版の組版字に活字を差し替えて同じ本を作らないという意図が窺える(活字が磨り減ったからではなく,意図的に新しく活字を作った).つまり,大量印刷とは程遠く,「一点物の工芸品」なのである.その様相は,連綿のみならず,字間の空きや字形の均質性を意図的に避けるなど,「写本の発想」に徹底したものであった.
この東西の印刷の違いは,発想自体の差異としか言いようがない.そこには金属活字技術の影響が確かにあったとしても,それは影響というより,むしろ対抗意識のあらわれのように思われる.明治期における「つづきかな」の試み(平野活版),複数のかな書体の混用による手書き風の再現などには,均質化への反発といった一面があるのではないか.さらには近代中国における明朝体への対抗も同様に理解できる.いずれも合理的・経済的な技術を追求する「西」の印刷の思想とは相容れない側面がある.鈴木先生のいう「東」の印刷の思想はどうやらその辺にありそうである.
出来上ったものの美しさにこだわる古活字版は,別の言い方をすれば版面全体をいかに統一させるかが問題であり,あくまで一枚の板で版を作る木版印刷が江戸時代の出版界の主流であったことと連動する.その意味では,木版と活字を使い分けていた朝鮮半島の場合も例外ではない.西洋よりも早く金属活字を発明した事実を誇る朝鮮半島だが,実際,鋳造活字は基本的に中央政権の管理物であった.中央では,より正しいオリジナル・テクストを作ることを目的とし,地方では,与えられたテクストを木版で複製して教育の現場などで利用したのである.活字を用いながらも,一つ一つが統一体で別物であるといった認識(写本の発想)をやはり共有していたのだろうか.この問題提起がなお示唆的なのは,活字から派生した多様な書体の審美的様式を追求する現代のタイポグラフィの領域につながるからであろう(因みに,韓国ではハングルの優れたデザイン性を称えつつ,その書体の開発が活発に行われている).
(文責:裴寛紋,守田貴弘)