【報告】「相互に依存する欲望と新しいメディア」リャオ・チャオヤン氏講演会
7月26日(月)、リャオ・チャオヤン氏(国立台湾大学外国語文学部教授)の講演「相互に依存する欲望と新しいメディア――ラカン的アプローチ」が東京大学駒場キャンパスにて開催された。
リャオ氏は、仏教思想や中国古典小説、フランスの批評理論や精神分析といった、非常に広範な領域にまたがる思索活動を行っている研究者である。本講演でも、氏の幅広い学識と現代技術に対する鋭い眼差しの一端が、本プログラムの主要関心である「欲望desire」の主題をめぐって提示された。
リャオ氏は、欲望を哲学的枠組みの基本的要素として用いる三つの様態として、人間の欲望は《他者》への欲望であるとするラカン、欲望を「欠如lack」としてではなく生産的な力として捉えるドゥルーズ/ガタリ、そして、この両者とは異なる欲望と因果性を提示する仏教思想を取り上げた。リャオ氏の議論はまず、ドゥルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス』の読解から出発し、『Philosophy East and West』誌上で70年代後半に行われた「仏教における欲望のパラドクス」をめぐる論争へと向かう。仏教において欲望は苦の根本原因であるから、悟りによって欲望を排除することが目指されるのだが、そこでは欲望を脱したいという別の欲望が働くことになる。
リャオ氏は、ディヴィッド・ウェブスター『パーリ教典における欲望の哲学』(David Webster, The Philosophy of Desire in the Buddhist Pali Canon, 2005)に依拠しながら、このパラドクスの解決策の一つを仏教思想における「縁起interdependent origination」の概念に見出している。これは「無明ignorance」に始まり「生」および「老死」に終わる「十二支縁起」が示しているような、原因が相互に依存し関係しあう多層的な因果性である。仏教思想においても、欲望はドゥルーズ/ガタリにおけるのと同様に創造的な側面をもっているが、欲望を脱した状態が欲望のより高度な形態と見なされるかぎりにおいて、ここでの欲望は否定的な意味での「倒錯した」生産力である。
リャオ氏は、このような仏教思想の「欠如の存在論」とラカン的な精神分析との類縁性を指摘したあとで、仏教思想特有の因果性を提示するためにいくつかのテクストを援用する。まずは「此があれば彼があり/此がなければ彼がない」という『自説経』の詩句である。ここにあるのは、知覚不可能な分子構造にも似た複雑性をともなう因果連関である。次に引き合いに出されるのは、牽強付会とも言える仕方で前世と現世との関係を述べるジャータカ物語(本生譚)である。講演では特に、忠告を聞かないシカの物語が例示された。
最後にリャオ氏は、ブッダの一つ一つの毛穴のなかに無限の世界が広がっていることを述べる『華厳経』の一節を引用しながら、本講演のもう一つのテーマである「新しいメディア」へと歩を進めていった。そこで問題となっているのは、「動態的な異階層dynamic heterarchy」と呼べるような異なるスケール間の垂直運動である。それを分かりやすく示すために、リャオ氏は、3Dモデリングを用いた彫刻や、伊藤潤二の漫画『うずまき』を例として挙げた。抽象的な幾何学模様が身体という異なるレベルに移されることを示すこれらの例を通して、技術革新にともなう身体の危機への目配せがなされるなかで本講演は締めくくられた。
講演後の質疑応答では、原和之・プログラム代表から、洋の東西、仏教思想・精神分析・現代思想等をまさに架橋する試みであった本講演への謝辞が述べられたあと、参加者とリャオ氏とのあいだで、おもに精神分析的な文脈から反復やトラウマの時間性をめぐる議論が交わされた。本講演と質疑応答はすべて英語で行われたが、今回の企画を通して筆者は、馴染みがある仏教思想の諸概念であってもそれらが英訳で提示されると途端に内実が掴みづらくなることを痛感すると同時に、その際に露呈する言語間の「異階層」を往復する楽しみを知ることができた。その意味で本講演は、東アジアと人文科学、媒体としての「英語」といったさまざまな問題を遠くから考察する「縁」でもあったと言えるかもしれない。(文責 藤岡俊博)