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【報告】シェパードソン、リャオ、中山、遠藤4氏共同セミナー「精神分析と人文諸科学」

2011.02.27 原和之, └イベント, 佐藤朋子, 精神分析と欲望のエステティクス

 連続講演企画の第三弾として、ジョイント・セミナー『精神分析と人文諸科学』が7月29日(木)に駒場で開催された。今回はシェパードソン氏、リャオ氏とともに遠藤不比人氏(成蹊大学教授)と中山徹氏(一橋大学准教授)にも登壇していただいた。

 各氏による講演ののち、司会の原和之(UTCP)や会場を交えての討議という流れでセミネールは進行したが、その後半の討議を通じては問題意識の共有と連接への動きがより明確な仕方で立ち現われることになった。それはまた「ジョイント」の意義をあらためて確認させる展開であった。


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 シェパードソン氏は「アメリカ合衆国における精神分析と人文諸科学(Psychoanalysis and the Humanities in the United States)」という題で講演し、ご自身の研究歴に重なる時期(1970年代から現在まで)を中心に、同国の状況について報告と所見とを呈示した。氏はPhDを取得するころになってようやくラカンの仕事を知り、その後、哲学や現象学の研究をさらに進めるのと同時進行的に精神分析の理論と実践とに深く関わるようになったという。そうした個人的な経験の背景に広がる一般的状況の特徴として氏が強調したのは、合衆国における、大学制度のなかの「寄宿者」あるいは「ホームレス」としての精神分析のあり方である。


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 氏によれば、第一に、精神分析はおもにフランス哲学、文学、フェミニズム理論、映画理論といった研究領域において、また人類学や歴史学の一部の研究者たちの仕事において一定のプレゼンスを示してきた。ただしフランス哲学を含む大陸哲学は合衆国の哲学界のなかで少数派であり、また最近10年間の文学研究の動向は、精神分析とは無縁の諸潮流(ポストコロニアニル理論、ニュー・ヒストリシズム、マルクシズムのアメリカ版とも呼ぶべき言説など)が支配的である。第二に、学位や学科・学部の有無を基準にして述べるならば、精神分析は本拠地と真に呼びうるものを大学のうちにもっていない。これはヨーロッパやラテン・アメリカと異なる点である。第三に、臨床方面における権威として知られる分析家たちのほとんどが医学博士の学位をもっており、そうでない場合でも、多くの分析家たちが心理療法に特化した教育プログラムを経験してきている。医学部系大学院やそれらのプログラムにみられる精神医学的あるいは心理療法的オリエンテーションは、実践のレベルにおいて多かれ少なかれ規定的であり、ややもすれば精神分析の特殊性を見えなくする方向性に働いているようである。他方で、精神分析の概念的特殊性に関心を寄せる(一点めで言及した)大学人たちの仕事は、臨床的次元とほとんど連絡していないという現実がある。
 氏の見解によれば、地政学的・歴史的運命としてとらえられうるこのホームレスというあり方は、存続の危険と同時に利点をふくみもっている。つまり、映画理論やジェンダー理論の発展、あるいは美学的領域において近年開発されてきた問いが示しているように、精神分析は、他のディシプリンへの依存性においてようやく生きながらえつつ、まさにそのことによって、精神分析ならではの貢献を他のディシプリンにもたらしてきたというのである。まとめのなかで氏は本セミナーの企画そのものを高く評価し、その理由の一つとして、大学という場のなかで精神分析の位置づけと可能性について議論することの重要性を指摘した。


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 リャオ氏は「哲学と科学のあいだで(Between Philosophy and Science)」というタイトルの講演を行った。氏がまず述べた一般的な観察によれば、台湾の状況は合衆国のそれとほぼ同じであって、ある世代以上の大学人が大学(院)教育を受けたのがもっぱらアメリカであったということがそうした状況の一因になっている。そして大学環境での精神分析のプレゼンスはやはり文学領域に、より精確には、哲学、文学、映画研究、ポスト・コロニアル研究の一部に限定されている。


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 リャオ氏もやはりPhD取得ののちにラカンや他の分析家の理論に親しむようになったという。その経緯に関わる個人的な動機を掘り下げる形で、氏は、分析的アプローチが人文学領域においてもちうる意義を次のように論じた。一つのポイントとして、ラカンにおいては主体というプロブレマティクが正面から扱われているということが肝要である。実際そのことは、「主体(性)」という問題の切り口そのものがほとんどみられなくなっていた当時に、氏がラカンの言説に関心を向けるのに決定的な意味をもっていた。もう一つのポイントは、ラカンの理論が、そのように哲学的な問題に取り組みながら、「科学的」であろうとするところ、つまり、氏によるならば、精神分析的サークルの外部(からの批判)にも開かれているというところにある。氏はさらに、ラカンの言説から引き出しうる科学的地位をめぐる考察を、文化的・社会的事象やテクノロジーの問いへのアプローチの枠組についての考察へと展開させることの有用性を論じた。さらにご自身のものでもある同時代的な関心の一つに沿う形で、有機体と環境という問題設定においてさえ、精神分析の言説を参照することによって、他者や真理、現実という言葉使いで問いを立てることがなおも可能であるという点を強調した。

 日本の大学から招聘したお二方には、引用や具体的な作品分析を交えながら、批評領域でのご自身の研究の一端を紹介していただいた。


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 中山氏は「ブラッド・フィーリングのアンチノミー(The Antinomy of Blood-feeling)」と題された講演で、まず、柄谷行人からスラヴォイ・ジジェクが借り受け、それをさら引き受けなおしたものだと解説しながら「パララクス・ビュー」という観念を導入した。氏によれば、この語とともに問題になっているのは、パースペクティヴの転換によって、決して遭遇しえない2つのレベルのショート・サーキットに直面することである。あるいは、理論的な賭け金を強調しながら別言するならば、パースペクティブにおける認識論的シフトが対象そのものにおける存在論的シフトへと反映することである。氏はついで、この観念を利用しながら、ウィンダム・ルイスのファシズム論の鮮やかな分析を呈示した。


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 氏が注目したのは、ルイスがその著作『ヒトラー』においてファシストの言説を読み解く際の興味深い仕方である。ルイスは、国家社会主義が「ブラッド・フィーリング(ドイツ語Blutgefühl)」に根拠をおくと述べる。と同時に、ブラッド・フィーリングの現れについて、ヒトラー的パースペクティヴにおいて現われる凝縮(concentration)という様相だけでなく、(19世紀アメリカの詩人)ホイットマンのパースペクティヴにおいて現われる拡散(diffusion)という様相を認める。そしてそのことによって、ドイツの血の神秘家とアメリカの革命的センチメンタリストのあいだに、ギャップと同時に(系譜学ではなく)トポロジーとして表わされうる位置関係を打ち立てている。
 中山氏はパララクス・ヴューという観点からルイスの所論を引き受けなおし、それが用意しているものとして、ブラッド・フィーリングに内在的なギャップの展開を通じての普遍主義と個別主義という差異の再概念化を浮き上がらせた。また、今回の読解が、ジジェクの概念だけでなくラカン理論やジョアン・コプチェクの仕事への送り返しという文脈のうちに位置づけられるものであることを解説した。


 遠藤氏は「革命/反革命の死の欲動—ジェフリー・メールマン『革命と反復』再読(The Death Drive of Revolution/Counter-Revolution: Rereading of Jeffrey Mehlman's Revolution and Repetition)」と題された講演を行った。


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 氏は現状を分析し、ひとまずは「実証的歴史主義」という語でひとくくりにしうるであろう傾向が日本およびアメリカの人文学において支配的であるとし、さらに、非歴史的な言説としての精神分析に対する恐怖症的な反応をそれが伴っていることを指摘した。ひるがえってメールマンの著作(1977年出版)は、そうした主流から逸脱しつつ、フロイトがいう死の欲動と、「革命」と「反革命」のマルクス的表象とのあいだに呼応関係を打ち立てようと試みている。メールマンの洞察によれば、マルクス的ボナパルティズムは、ブルジョアとプロレタリアのマルクス的弁証法のトラウマ的過剰であり、マルクス主義における「階級表象という観念との決別/切断」を標している。遠藤氏は、この洞察がもつ興味深い点を敷衍した上で、マルクス的な歴史表象における革命と反革命のラディカルな未規定性の探究としてそれを要約した。メールマンの著作についての評価を一般化しながら氏が述べたところによれば、精神分析的言説は、トラウマ的なもの(革命的なもの)の「歴史性」への洞察をわれわれに供給しうる唯一の特権的な言説である。かつ、(実証主義的な基準に照らし合わせるならば)「非歴史的」と形容すべき観点から、現在の実証主義的・歴史主義的傾向に有効な仕方で介入する力をもつ言説である。


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 討議の時間では、とくに登壇者と司会者のあいだで交わされたコメントを通じて、講演中に示唆された問題のさらなる広がりが明確になった。個別な問題の深化については報告を省略させていただくとして、各講演を分節化する途を示唆していたものを取り上げるならば、まず、「寄宿者」あるいは「ホームレス」のディシプリンとしてのあり方は、あらたな過去を自分自身に作り出すという精神分析的言説がもつある種の力との呼応関係において捉えられるべきであると示唆する中山氏からの発言があった。そしてシェパードソン氏からは、「ホームレス」としての精神分析という自らの所見にさらに付け加えるべきこととして、精神分析が制度的には場所をもたないにもかかわらず、精神分析に対する「知ることの欲望(desire of know)」が学生のあいだにあるという、台湾で教鞭をとった経験からの感想が述べられた。シェパードソン氏のその感想は、中山氏の整理を後押ししうるものであるというだけでなく、現状の分析から今後の展望の構築へという展開にとっての一つの示唆として興味深いものであった。                        (文責 佐藤朋子)

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