【報告】国語に思想はあるか? ーイントロダクションー
2010年11月10日から12月17日まで4回にわたり,安田敏朗先生(一橋大学大学院言語社会研究科)の連続セミナー「『国語』に思想はあるか」を開催しました.これから数回に分けて報告します.
第1回(11月10日)イントロダクション
「『国語』に思想はあるか」という挑発的な題をかかげた連続セミナーの初日.安田氏は,イ・ヨンスク『「国語」という思想――近代日本の言語認識』(岩波書店、1996年)を取り上げ,そもそも「思想」と呼ぶべきものが「国語」に内在しているのかと問いかけた.「思想」らしきものがあるとすれば,それはむしろプロパガンダやイデオロギーの類であって,むしろ「制度」として「国語」を捉えるべきではないのか.
制度としての国語とは,簡単にいえば「統治制度」を言語に適用した見方である.「国語」は政策の対象になりうる以上,制度の一つであり,このように捉えることによって,植民地も含めた,扶植可能な制度としての国語政策という面も見えてくるし,今後の議論に資することができるのではないか.これが安田氏自身の問題意識であり,また連続セミナーに通底するテーマだった.
ただ,2回目以降により一層と問題となるのだが,国語は国民国家の政策により創り上げられた,極めて人為的な構築物でありながら,同時にその過程で新たな「自然さ」「本然さ」,ひいては想像的な局面である「愛」を獲得していくことになる.国語をめぐっては制度と愛が複雑に絡まり合う(不自然な) 様相を見なければならないというのは,斬新な提示だったと思う.
初回の講義はこの後,国語の成立過程を追って,効率化と大衆化,国民国家の時空の均質化(共時的構築)そしてひらがな専用論やローマ字専用論,言文一致(文言一致)といった表記論の問題へと話は続き,「国民国家の時空の歴史化(通時的構築)のためには、国史・国文学史とともに、国語史も整序されねばならない」という要請に応える者として上田万年(1867-1937)が登場する.彼は国家と言語の歴史的関係を示し,国語の自然さを訴える必要性を自覚していた.
国語の自然さを主張するために比較言語学の手法が用いられたのは知識としては知っていた.しかし,このように制度化と愛の絡み合いという文脈で捉える,制度としての国語「化」に貢献する言語学に対して,考えさせられた点が少なくとも2つあった.1つは,主張しようとしている言語学の科学性を自ら崩している点である.これは,国語の歴史性や「自然さ」といったものを主張するために,自ら非科学的な主張を行っているように見えるという点である.これは,あまり説明を要するものではないだろう.もう1つは,比較言語学の「祖語の再建を目指す」という方法自体に含まれる危うさである.資料に基く限り,音韻変化を主たる方法とした祖語の再建は間違ってはいないと思う.しかし,それが(後日,議論のデーマにもなるのだが)時流に乗り,半学者,半政治家の手にかかって危険な効力を発揮してしまった点も見逃してはならないと感じた.
(守田貴弘,裴寛紋)