【報告】「近代東アジアのエクリチュールと思考」第12回,第13回セミナー
第12回目のセミナーは「日本思想史学の方法と宣長問題」と題し,裴寛紋(UTCP)が発表の部を、刀根直樹さん(比較・修士課程)が討論の部を担当しました(発表11月12日、討論19日).
第13回目のセミナーは「『支那游記』から見る芥川龍之介の中国理解」と題し、王煜丹さん(比較・研究生)が発表を、呉燕さん(東京大学特別研究員)がコメンテーターをつとめました(発表11月26日、討論12月3日).
日本思想史学の方法と宣長問題
発表の部(11月12日)では、近代的な実証的文献学者であると同時に信仰的な皇国主義者である側面を本居宣長の矛盾として捉える,いわゆる「宣長問題」を問題にした.この問題は,「日本的なもの」を語る言説において絶えず宣長が呼び出されてきたこととも密接にかかわっている.発表では,近代日本の宣長言説が宣長学の解明というより,あくまで同時代思想としての現代的課題であったことを,村岡典嗣と丸山真男の宣長論を例にして指摘した.両者は日本思想史の方法論を宣長学に求めるなかで,「日本的なもの」を想定する思考の枠組からして宣長に大きく依存せざるを得なかったのである.宣長(また宣長に影響を及ぼした徂徠)の古代研究も,常に彼らの現代への関心であった.とくに宣長が『古事記』に見出した「神代の妙理」を「歴史の理」に適用した点や,「皇国」という語の採用などは,すべて今の人間世界の総体を問う自己確証を営みとして考えられる.
討論の部(11月19日)では,コメンテーターの取り上げた上田秋成との論争『呵刈葭』を材料にし,宣長の世界認識について議論が交わされた.ただ,子安宣邦のように,日本固有の起源(他者性の排除)といった言説の典型に宣長を置く見方は,漢字を他者として認識するということが自明の前提となっており,そもそもそのようなメカニズム自体を再考する必要がある.
また別の論点として,宣長の現実政治体制に関する認識があげられ,宣長の場合は委任政治論であったこと,したがって尊皇主義と幕府賛美の態度が矛盾なく説明される点を補足した(宣長の「皇国」は当然、天皇親政体制における「皇国」の意味合いとは異なる).さらに,宣長の時代並びに同時代批評、宣長以降の「皇国」主義の継承・利用・変遷などについても質疑応答が行われた.
最後に,宣長研究のスタンスについて,近代の「学問」の在り方が本質的に系統論・源泉論を求める性格を内包しており,その意味では宣長の「皇国」思想に通じるような側面を根底にもっているのではないかという示唆があった。だからこそ,近代において宣長学の方法が高く評価されたのかも知れない.宣長「学」や徂徠「学」という用語自体が既にそのことを端的にあらわしているともいえる.
『支那游記』から見る芥川龍之介の中国理解
発表の部(11月26日)で取り上げたテクストは,大正10(1921)年,芥川龍之介が大阪毎日新聞社の特派員として中国を訪問し,帰国後に執筆・発表した『支那游記』である.従来,本書は中国事情及び中国人に対する否定的な描写のために問題作とされ,芥川の中国観については,中国古典文学に対する憧憬と現実中国とのギャップによる幻滅だったと捉えられてきた.それに対し発表者は,テクストに出てくる「気の毒」というキーワードに注目することで,この問題を単なる異文化論として扱えないと指摘した.中国という場所が文学的故郷として芥川に認識されていたことから考えれば,現代中国にそれを発見できないことへの失望(書けない自分に対する焦燥感など)の方が大きかったのではないか.そこには,あくまでジャーナリストとして書くといった芥川の立場(当時,文学者として「美しい中国」を描いていた谷崎潤一郎へのアンチテーゼ)も重要な論点の一つになりそうである.
討論の部(12月3日)では、大正時代に流行っていた「支那趣味」について補足があった.それはヨーロッパのオリエンタリズムと枠組としては似ているものの,ノスタルジアを含んでいる意味で同一視はできない.芥川も当然,こういった支那言説の中で思考していた.ただ,現代の機械文明に対する批判の側面もある点には注意を要する.
コメンテーターは,いくつかの中国訳本において「気の毒」という表現がいかに翻訳されているのかを調査し,それが多様なニュアンスを含んでいることを改めて指摘し,その上で「気の毒」の他に,「不潔さ」「怪しさ」「俗悪さ」などの用語との相関関係について質問した.発表者は,「気の毒」を特定のものに対する感情というより,一種の符号化であり,したがってその言葉が芥川の中国観を代弁するものと理解していると応答した.
また,上海や江南とは異なって北京に対しては書けなかったこと,すなわち文体に断層があることが問題となった.総じて言えば,本書を整備された完成作として見て,そこに中国に対する統一的なイメージがあると考えること自体が疑問視された.芥川は目の前の中国に圧倒され、混乱したままの状態で言葉にできず,むしろ意図していた世界観の提示には失敗したというべきかもしれない.
(裴寛紋,守田貴弘)