【報告】ビル・マーティン "Another Justice, Another Communism"
2010年12月1日、駒場キャンパスのコラボレーション・ルーム1で、ビル・マルティン氏(デポール大学)を招聘し、マルクス主義、道徳、宗教に関する講演が開催された。
通常、マルクス主義は経済論として読まれているため、道徳と関係がないといわれている。そして、多くのマルクス主義者は、宗教は労働階級のアヘンであるというマルクスのきわめて有名な発言に依拠し、マルクスは宗教を批判しただけだと判断する。しかし、マルティン氏はデリダとバディウを引きながら、マルクス主義のために道徳と宗教は重要だと強調した。つまり、道徳がなければ、なぜ今の資本主義社会を否定して社会主義を実現するのかという質問に答えられないとマルティン氏は述べた。
では、宗教はなぜマルクス主義に必要なのか。マルティン氏は宗教をきわめて広い意味で定義して,有限の自己を超える歴史的意義を定める立場は宗教的であると論じた。その信仰をもっているなら、人々は歴史の目的のために死んでもいいということだ。この観点から見れば,マルクス主義は宗教的だといえるだろう。たとえば、日本思想によく影響を与えたゴーガルテンは宗教とある他者からの呼びかけを「無解釈に応答責任的に行くもの」と結びつけるが、それはデリダ、ハイデガーなどの立場と重なる点があると思う。日本の京都学派、特に西田幾多郎と田辺元はこの点を発展させたのである。日本のマルクス主義者というと、梅本克己の次の発言も宗教的な側面をもっているのではないかと思う。「はげしい実践の過程にあってはもっとも重要な位置を占めたもの──報いられるを期待せぬ解放への献身とか、利己心を絶対に去るとかいわれたものがそれである。」(梅本克己「唯物論と人間──マルクス主義と宗教なるもの」)このような言葉は日本の文脈に置くと、常に批判されるようだ。なぜなら、これは戦前の和辻哲郎など日本の右派思想家たちの「滅私奉公」というような言葉に近いのではないかと捉えられるからだ。ある程度1980年頃から、全世界の人々は資本主義の問題を超えた別の正義の世界の希望を失ってしまった。未来から呼ばれているといっても今その声が聞こえると答えられることがますます少なくなっているようだ。マルクスにとっては未来を聞くことと資本主義の分析は不可分な関係がある。より正確に言えば、資本の矛盾は別の可能性と結びついているので、未来の声はその矛盾によってできたということだ。さらに梅本とマルティン氏の立場は和辻と違って、国家をもって資本主義を支配することではなく、大衆運動をもって資本主義と民族国家を同時に超えようとしている。マルクス主義においては、人々は社会主義という、未来の資本主義よりもっと正義や自由が実現できる世界から呼ばれているという。それはマルクスの道徳的目的論ともいえるだろう。歴史の目的、いわば、社会主義の未来から歴史の意味が定められているということである。
講演の後、ある参加者からはマルティン氏に彼のマルクスは少々簡単すぎるのではないかという質問が出た。マルティン氏はエドゥアルト・ベルンシュタイン(Eduard Bernstein)などは上に述べた決定論的なマルクス解釈をもっていると答えた。しかし、マルティン氏は19世紀や20世紀初頭に生きていたマルクス主義者と議論しているのではないだろう。もし、今文章を書いているマルクス主義者の道徳についての議論を引きながら、彼の立場を発展させたら、もっと納得できるのではないかと思う。中島隆博先生は主体性の問題について質問したが、マルティン氏は他の論者たちがつねに主体性について語っているので彼はあまり論じないといった。ただ、歴史や未来から呼ばれているのがまた主体なので、その主体とほかの人々がいっている主体は違うだろう。このような問題が残っているが、マルティン氏はマルクス主義のきわめて重要なテーマを指し示した。つまり、マルクス主義の議論を理解したら、主体はどのように変化する必要があるのか。知識人としてのマルクス主義者はいつもそのような問題があるようだ。つまり、理論的に資本主義を批判するが、実践から言えば、あまり他の立場をもつ知識人達とあまり違わない。道徳や宗教はある程度こういう差異を超えるような条件を与えるかもしれない。(ヴィレン・ムーティ)