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【報告】"Affect" Conference 2010:荒川徹

2010.12.14 荒川徹

2010年12月、科学研究費補助金(特別研究員奨励費)の助成を受けて、クイーンズランド大学(ブリズベン、オーストラリア)で開催された学会、Australasian Society for Continental Philosophy Annual Conference 2010 "Affect"(12月3-5日)に参加した。以下に報告する。

このイヴェントは、3日間でおよそ100人ほどが発表する大陸哲学(美学を含む)の学会であり、4人の基調講演者を招待している。学会自体は1995年にメルボルンで院生たちによって立ち上げられたという。参加者はオーストラリア、ニュージーランドの教員・学生などが大部分。日本人の参加者はわたしのみだったが、ドイツ、シンガポールなど各国からの参加者もあった。わたしの参加経緯は〈アフェクト〉(情動)というペーパー募集のテーマに惹かれて応募したこと、そしてもちろん未訪の外国で自らの研究を試してくるという目的もあった。

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[キャンパス内のカササギフエガラス。ほかの動物の鳴き声も含めたとても複雑な歌をうたう。]

クイーンズランド大学があるブリズベンは都市と自然の境界がきわめてエキサイティングなバランスで保たれている。大学にはブリズベン川を蛇行するフェリーで向かう(もちろん電車+バスでもよい)。船という交通手段がいまだ生きていることに驚く。滞在期間中のブリズベンはちょうど梅雨のような天気だったが、聞いたこともない鳥の鳴き声とともに、日本とは異なる植物相の構成をもつ香りが運ばれてくる。

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["Bush Turkey"などと呼ばれているヤブツカツクリがおとなしくキャンパス内をうろつく。]

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[大学敷地内の宿泊施設では、愛くるしいアルビノのヤモリを見かけた。ハスオビビロードヤモリだろうか。]

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怪鳥や珍獣が舞う一方、カンファレンス会場である、ヘリドン砂岩のパターンが美しい外壁をもったForgan Smith Buildingでは各会場にプレゼン用のシステムが構築されており、タッチパネルで照明までをコントロールすることができるハイテクな体制。自然とテクノロジーの両極を兼ね備えた理想的環境だ。

今回の学会では以前、UTCPの知覚の哲学ワークショップで来日したJondi Keane氏(グリフィス大学)が参加しており、Pia Ednie-Brown氏(ロイヤルメルボルン工科大学)との共同発表を行っていた。Keane氏は今年自らの大学でアラカワ/ギンズのカンファレンス(AG3)も主宰したほどの、荒川修作の熱烈な研究者でありアーティストである。東京に来日したときにひどく拙い英語でしつこく話しかけた私を覚えてくれていた。彼らの発表もとても楽しみだった。

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わたし自身は"Art and its Affects"という美学・芸術論を中心とした部門で、"Cézanne’s Nonhuman Affect and Subnature"という題で発表した。1890年代以降のセザンヌの廃墟絵画における非人間的アフェクトの問題を、ピクチャレスク美学とジル・ドゥルーズの哲学から分析したもの。セザンヌが1890年代以降描いた廃墟や石切場の絵画は、セザンヌ自身の社会的な孤立における孤独や絶望の感情を反映しているという常套句でいまだ語られている。しかし、実際の絵画はそれよりもはるかに複雑だ。今回試みたのは、内的感情という観点をまったく必要としない分析。わたしはメイヤー・シャピロの古典的なセザンヌ論における廃墟絵画の鋭い分析や、現地を訪れた画家・研究者の丹念なモチーフ研究にたちかえったうえで、自然/人工、生物/無生物という境界を崩壊させる、諸要素のアフェクティヴな相互作用を抽出した。セザンヌが廃墟(もちろんそれに限らない)を描く原理とは、たとえ廃棄物として打ち捨てられた石のブロックひとつでさえすべてのものが感覚するプロセスであり、何も孤立して存在するものはない、ということだ。これは画家の内面との同一化や、アニミズムとはまったく異なるもの。廃墟の割れた壁や切られた石が、木々や大地・空と画面上で接触し色彩と線を接合・混合させる様(絵画的・遠近法的アフェクト)は、喜びや悲しみ、恐怖やメランコリーといった人間的感情には収束しない、石のブロックや木、そして絵画それ自体というマテリアルの非人間的なアフェクトを表現している。

発表後、Keane氏に聞かれたことは、なぜわたしがこのようなセザンヌ論に至ったかということだった。遡ると、今回の大きな発想源は私が栃木県大谷の石切場を訪れたことに端を発している。石切場に行って写真を撮ると(もちろんスケッチをするのが望ましい)、岩の褶曲や風化が創出する奇景に鮮烈なカットが加えられる様は、見る主体による形式的な抽象化や象徴的な同一化といったものはおおよそ相いれず、物のアフェクトにとらわれ、風景自体が要請するフレーミングに従うだけという状況に置かれることが鮮烈に実感できる。孤独の投影などではなく、ピクチャレスク理論でいえば〈好奇心 curiosity〉に突き動かされるような、そういった経験に忠実なセザンヌ論をわたしは探求していた。ブリズベンでも、大学からバスと徒歩で40分ほどのところにあるマウント・クート=ター採石場を急ぎ足で無理をおして訪れた。現地の入り口は当然閉鎖されていたが、隣の植物園のある地点から覗き込むことができた。

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これが物的な抽象化の現場だ。畠山直哉の写真集『LIMEWORKS』の世界そのままの、段状に掘られて中央に美しいエメラルドグリーンの池ができた、円形闘技場のような採石場。コンパクトカメラのフレームには収まりきらないが、幅は400-500mはある。かつてはこの巨大な空洞に石が詰まっていたのだろう。Brisbane City Councilのパンフレットによれば、この石切場は1919年から使われ、年間40万トン以上のアスファルトの粒が生産されているという。元々の地形から等高線のような段で切り出されたその姿は、地上に現出した立体地図のようだ。わたしにとっては、アラカワ+ギンズの建築を語るより、このような場所を自分で探し出していくことのほうが重要だと思っている。

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Keane氏+Brown氏の2人の共同発表がどう行われるのか非常に期待していたが、そのプレゼンテーションスタイルは予想を大きく超えるものだった。1人では行えない、レクチャー作品のようなパフォーマンス。Brown氏が書画カメラに直接手書きする紙を投影し、Keane氏が語る間、対応するイラストやドローイングをリアルタイムで書き込んでいく。一方、Brown氏が語る時は、カメラの映像が投影されたホワイトボードのうえにKeane氏が描き、時には消していく。"Affective Flashpoints"という概念をもとに、高層ビルの高さを求める方法をめぐる想像力や、エンボディメントとしての〈笑い〉といった問題が語られていく。ペーパーを読み上げるだけの古典的スタイルや、事前に準備したスライドを紙芝居的に展開する層状のスタイルとはまったく異なり、講演原稿が複数に走る線とともに演じられる。想像的イメージの境界のまさに情動的な浸透が表現されていく、ニューラルな速度をもった刺激的なレクチャーだった。

今回のもうひとつの目的地は、ミニマリズムのコレクション(ジャッド、スミッソン等)を有しているキャンベラのナショナル・ギャラリーを訪問し資料を集めること。館内は撮影禁止だったが、ジャクソン・ポロックの《ブルー・ポールズ》(1952年)に代表される西洋近現代美術だけでなく、アボリジニ美術、東アジア美術や初期写真まで多様性があり、充実したコレクション。アボリジニ美術も、大量の作品に囲まれて見ると、その眩惑的なパターンメイキングの感受の仕方が、ゆるやかにわかってくる。自己の身体とマテリアル・環境とのディープなコミュニケーションに根ざしたそれらの作品群は、モダニズム的切断から出発した西洋の抽象画とは根源的な差異も感じられる。このような美術館は、異文化の単純な類比というより、異質な空間-時間のあいだに張り巡らされる複数の視座を用意してくれた。

〈アフェクト〉+〈オーストラリア〉という非常に濃い条件が重なった今回の出張は、私の今後の研究展開において非常に重要な契機となった。岩や植物、動物のアフェクトを鮮烈に感じられる環境で思考することは、アームチェアー上の夢想には遠く及ばないスケールとディテールを与えてくれる。今回の出張の機会をあたえていただき、またお世話になったすべての人に感謝します。

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