【報告】UTCPシンポジウム「『存在と時間』再考──門脇俊介の哲学から出発して」
2010年7月30日、UTCPシンポジウム「『存在と時間』再考──門脇俊介の哲学から出発して」を開催しました。
このシンポジウムは内外でハイデガー研究者として活躍した故門脇俊介元東京大学教授(前UTCP事務局長)のかつてのゼミ生たちが『存在と時間』のポテンシャリティーを再考するというものです。多数の参加者にめぐまれ、5名が発表をおこないました。発表者のみなさんにそれぞれの発表の内容をかんたんにまとめてもらいました。以下、順にご紹介します。
無関心・死・伝承──『存在と時間』の他者論
池田喬(UTCP)
本発表の目的は、『存在と時間』に不在とされる他者論をあえて展開することだった。そのためのヒントになったのは、<道具は目立たなくなることをその存在の構成的要件とするが、道具との交渉への没入することで他者も目立たなくなることは、ハイデガーにおいて非本来的な他者関係を意味する>、という門脇俊介の指摘である。門脇は生前、ハイデガーが「他なる人格」を扱う議論を探し求めようとしていたが、私の考えでは、その議論の内実は他者の死の「代理不可能性」にある。非本来性からの変様が語られる『存在と時間』第二篇において他者が集中的に語られるのは死の問題において(のみ)であり、遺された者は死者の被った「存在喪失」を代理できないという、そこでの議論は、非本来的な他者関係をハイデガーが「代わりにやる」ことと呼ぶことと対称性を示している。さらに、私は、過去の現存在の存在可能性の「伝承」という特別な他者関係に着目し、ハイデガーが「範を示す」と呼ぶ本来的他者関係とは、「代わりにやる」ことが原理的に不可能な「死者」と残された者の関係を典型として構想されていることを論じた。
汝自身であるものになれ──『存在と時間』から《出発》して
西山達也(UTCP)
本発表は『存在と時間』のなかから「理解・了解(Verstehen)」を扱った第31節を精読した。この節でハイデガーは、「理解」という現象を「自己」理解から規定し、「自己」の存在可能性への投企の構造を「…のために(das Worumwillen)」という概念によって記述している。「…のために」は、「目的であるもの」もしくは「主旨」と訳されるが(これを門脇氏は手段・目的の連関に回収されない理由の関係と解釈する)、「主旨」ないし「目的であるもの」を目指す眼差しには、ある独特な視界の開示が伴う。この視界の開示は、門脇氏によれば判明な「表象」とは異なる、しかし不分明ではなくある程度分節化された形で遂行されるという。本発表では、門脇氏の分析を一歩すすめて、この視界の開示がアポリア的な視界の開示であることを指摘した。発表タイトルの「汝自身であるものになれ」(『存在と時間』第31節で引用される詩人ピンダロスの言葉)は、こうしたアポリア的な視界の開示のうちで生起する自己のありようを言い表すものである。
行為が見えてくる~ハイデガーと看護
村上靖彦(大阪大学)
西村ユミが看護師へのインタビューをもとに行った研究から『存在と時間』の世界論を読み直す。
看護は、状況を「見る」という了解が、これからすべき行為の投企を含み込むことを際立たせる。そのとき、この見てとる力は、経験の蓄積という被投と対人関係の深度に比例することになる。
ただし状況は単に道具と行為のネットワークとして空間的に秩序化されているだけでなく、ハイデガーが語らなかったことだが、「すべき行為の連鎖」として時間軸においても刻々と変化する行為の秩序を形成していることが明らかになる。
また看護行為の投企が要請する対人関係の深度は、(配慮を媒介とした間接的な人間関係である)顧慮によっては記述しつくすことができない直接的な関係を要請する。この点もハイデガーに変更を加える必要がある。とりわけ、植物状態の患者さんとのコミュニケーションの可能性を模索する場面は、配慮的な関係と直接的な関係との差異を際だたせることになる。
全体論的規範主義の可能性 ──『存在と時間』解釈に基づく「理由の空間」概念の拡張をめぐって
飯嶋裕治(東京大学)
本発表の目的は、門脇俊介の企図していた「全体論的規範主義」という哲学的構想の概略を示し、そこにどのようにハイデガー解釈が関わっていたのかについて確認することにある。この構想は、還元的自然主義に対抗する反自然主義のもう一つ別の可能性として提示され、そこでは主に、(1)「理由の空間」という反自然的領野の編成の解明と、(2)その「理由の空間」が世界のなかで孤立した領域でないことの解明、という二つの課題が探求されていた。
そして門脇のハイデガー解釈は、特にその後者の課題に関わるものだった。そこでは、反自然的な領域としての「理由の空間」を、単に表象的・推論的なものとしてのみ捉えるのではなく、反表象的・非推論的な背景的理解(つまり、命題的表象を介さず端的に人間の行為を可能にしているような、規範全体性についての背景的了解)をも含んだ領域として「拡張」することによって、いわば「理由の空間」と「世界」とが一体的なものとして捉え直されていたわけだが、そこにハイデガーの世界内存在の哲学が大胆かつ周到に援用されていたことを確認した。
『存在と時間』と現象学の自然化
原塑(東北大学)
論文「ハイデガーによる「理由の空間」の拡張」で、門脇は、『存在と時間』の現代哲学に対する貢献は、反自然主義的な理由の空間を、人間の日常的行為を包摂するように拡張した点にあると評価している。これは、世界内存在という存在様式をもつ現存在が埋め込まれている実践的コンテクストが規範性を帯びているからである。門脇によるハイデガー評価に対して、私は、『存在と時間』はむしろ、反自然主義を無効化するような仕方で理由の空間を拡張することで、現象学の自然化への道をつけたのだと解釈したい。現存在は、実践的コンテクストが与えてくる意義を非明示的に読み取り、行動様式を柔軟に調整するが、この調整過程は微視的で、科学的に説明可能ではあるものの、日常的な理由づけに単純に取り込めるような仕方で明示的に与えられているわけではないからである。ハイデガーの解釈学的現象学は、科学や哲学的営みがどのような回路を通じて自己理解の深化に貢献するのか、そのメカニズムを体系的に記述する科学哲学理論とみなすことができるが、そのメカニズムを科学的語彙によって再記述できる余地を残すような仕方で描いている点で、諸科学との統合的哲学を目指す哲学的自然主義にとって重要性をもつのである。