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中国東北地区における「Confucian Revival」と「Confucian Piety」

2010.10.03 中島隆博, 石井剛

9月28日は孔子の誕生日にあたり、中国では近年来全国各地の文廟(孔子廟のこと)で記念式典が行われます。中島隆博氏、水口拓寿氏(大学院人文社会系研究科)とわたし(石井剛)の3人は、東北地方における記念活動の現状を調査すべく、9月26日から30日までの間、吉林省の長春市と吉林市を訪問してきました。

このフィールドワークは、フランス現代中国研究センター(香港)との共同研究“The Confucian Revival in Contemporary China, Forms and Meanings of Confucian Piety Today”の一環として組織されたものです。この共同研究には、フランスや中国大陸、台湾など複数の国と地域から、主に文化人類学を専門とする研究者が参加しています。日本を拠点として研究に従事しているわたしたちが東北地方に行くことには、次のような理由があります。まず、万里の長城の外側(つまり中原文化から見た場合の僻遠の地)で、「Confucian revival」と見なせる文化現象が近年認められるという事実自体が興味深いものであること。もう一つは、かつての日本による植民統治下での儒家文化の形態について何らかの手がかりを得るために、わたしたち日本の研究者には地の利があるだろうということです。「満洲国」と呼ばれた事実上の傀儡政権が統治イデオロギーとして儒家の思想・文化を利用していたのだとすれば、その遺産は今日の「Confucian revival」に何らかの有形無形のリソースを提供してはいないだろうか、というわけです。
 わたしたちの行程は次の通りでした。
9月26日 長春市(吉林省の省都)到着。
9月27日 午前:長春文廟の下見、偽満皇宮博物院見学。午後:東北師範大学歴史文化学院「東アジア歴史学研究チーム」との座談会。
9月28日 孔子生誕2561周年記念祭典に参加(長春文廟)。
9月29日 午前:吉林市にある吉林文廟を見学。午後:北華大学東アジアセンターで意見交換。
9月30日 帰途へ。
 わたしたちが今回訪れたのは長春市と吉林市の二つの文廟でした。フィールドワークの直接の目的は文廟における孔子記念活動の実態を知ることでしたので、その意味では、活動の性格が全く異なる二つの文廟を見られたというのは大きな収穫でした。文廟は中国では一般に「孔廟」と呼ばれてきました。孔子の生地である山東省の曲阜にあるものが最大ですが、歴代王朝も国家祭礼として孔子を祭るために首都に孔廟を築いたほか、全国各地にも廟が建てられました。吉林省は今でこそ長春を省都としていますが(「満洲国」時代のいわゆる首都「新京」はここにありました)、清代には吉林市が中心で、吉林文廟も最初の築造が乾隆年間(18世紀半ば)のことであったといいます。このような沿革によるのでしょうか、吉林文廟の祭祀活動は今日でも当地に根ざす孔家末裔たちを中心として継続されており、廟宇の保存状態も良好で、宣統元(1909)年に完成したものがほぼ完全なかたちで残っています(国の重要文化財)。

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一方の長春文廟は、同治十一(1872)年に初めて建てられたときの建築はほぼすべて失われ、2002年になって再建されました。その後毎年、孔子祭礼を中心として、成人礼などの通過儀礼や「国学」市民講座など、社会主義下でいったん失われた民間習俗や伝統文化を組織的に再構築して市民に提供する場として、一定の役割を発揮して今日に至っています。長春文廟に顕著なのは、孔家末裔による「家祭」という性格がほとんど完全に払拭され、「和諧社会(harmonious society)」建設という近年来の党=国家的政策目標に応答しつつ、「文化産業」として広く市民のニーズを取り込もうとする姿勢です。1990年代後半以降全国で急速に進んだ機構改革(国有部門のリストラ)と経済社会の市場化改革、グローバル資本主義の国内市場への浸透とそれに対する反応としての伝統回帰などなど、21世紀になって喧しく議論される中国の社会現象の縮図が長春文廟には体現されているということなのだと思います。

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 東北師範大学の座談会には、本学で東アジア近代外交史を研究する川島真氏も合流、多くのオーディエンスに囲まれて、にぎやかな会合となりました。中島氏は近代的啓蒙における儒家思想の位置をどう認識するかという問題を福沢諭吉や胡適に言及しつつ提示しました。水口氏は文廟を中心とする孔子祭祀の復興をローカル・コミュニティ建設に結びつけることが今日的文脈の中でも特別な意味を持っているのではないかと提言しました。わたしは「儒家文化復興」のムーヴメントが新中国になってからは1980年代と21世紀最初の10年との2度あらわれているが、それぞれの異なった社会背景がそれらとどのように結びつけられるかを問いかけました。会場からはさまざまな意見が息つく間もなく挙がり、それをいちいち紹介することはとてもできません。大きな傾向を概括するなら、日常生活に浸透するいわばエトスとして、『論語』などに示される礼節や倫理観への幅広い共感が示される一方で、今日長春で展開されている「儒家復興」の動きに対しては、冷ややかであるか、ほぼ全く無知であるかのどちらかであったこと、水口氏の提言に対する好意的な感想が多かったことが挙げられるでしょう。東北地域は清代以降、万里の長城内から大量の人口流入を経験した移民社会であり、それに加えてエスニックな面でも、土着のマンジュ系、モンゴル系ほかのエスニック・グループや、朝鮮系、ロシア系などなどが共存し、多様性豊かな文化を構成しています。儒家文化復興現象を新たな国家的イデオロギーの一形態にすぎないと見なす冷めた眼差しが異口同音に表出されたことにはそのような背景が作用していたのかもしれません。

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 今回のフィールドワークについては、共同研究グループのメンバーが駒場に集まって12月3日、4日に行われるワークショップで詳細に報告される予定です。
 訪問に当たって諸方面で便宜を図ってくださった、長春文廟事務室の王洪源(WANG Hongyuan)主任、東北師範大学歴史文化学院の韓東育(HAN Dongyu)院長、北華大学東アジアセンター鄭毅(ZHENG Yi)センター長に、この場を借りて深く感謝申し上げます。

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