Blog / ブログ

 

【UTCP Juventus】藤岡俊博

2010.08.16 藤岡俊博, UTCP Juventus

【UTCP Juventus】は、UTCP若手研究者の研究プロフィールを連載するシリーズです。ひとりひとりが各自の研究テーマ、いままでの仕事、今後の展開などを自由に綴っていきます。2010年度の第7回目は特任研究員の藤岡俊博(現代フランス哲学)が担当します。

 私はこれまで、ロシア帝政末期リトアニアに生まれフランスで著述活動を行ったユダヤ系哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906-1995)の研究を行ってきました。特に、フッサールおよびハイデガーのもとでの現象学研究から出発したレヴィナスが、ユダヤ教由来のどのような思考様式や概念構成を哲学の言説のなかに組み込んでいるのかという論点を軸にして、性的差異やメシアニズムの時間性といった個別の問題を扱ってきました。
 レヴィナスとの関わりに一応の「区切り」を付けるべく、現在執筆中の博士論文では、レヴィナスにおける「場所lieu」の思想という、より大きな主題を選択しています。とはいえ、レヴィナスはいわゆる場所「論」を展開しているわけではありませんので、むしろ「場所」のさまざまな表象ないし空間性の諸様態といった方が正確かもしれません。

 レヴィナスにおける「場所」の主題を博士論文の主題として選んだ理由は、私が以前から、人間は自分が置かれたところといかなる関係にあるのかという問いに関心を抱いていたことにあります。きわめて素朴で、漠然とした問いですが、そこには人間の自由をめぐる大問題がひそんでいるように思われます。いったい私はどの程度まで自由なのでしょうか。
 身体をそなえているかぎりにおいて、すでに「風のように」自由というわけにはいきません。幸いにも私は自分の身体を「不自由なく」動かすことができますが、それでも、ときには身体の「自由がきかない」ことがあります。さらに、身体のすぐ外側にも、私の自由を妨げるものがあふれています。椅子が固いことが原因で考えがまとまらないこともありますし、疲れているのにベッドのスプリングが気になって眠れないこともあります。背が低くて高いところの商品が取れないとか、足が短くて溝をまたげないとかいう不自由を感じることなどは日常茶飯事です。

 しかし人間は、広い意味での「環境milieu」が提示するこのような不自由さを甘受して、したいことを諦めてしまうほどには不自由ではありません。環境を改変して人間の自由度を増す作業は日々行われていますし(バリアフリー)、自由の妨げとなる環境に抵抗するかわりに、自分をむしろ環境の方に(ときには無意識的に)合わせてやることができるからです。このような身の回りの環境内での行為可能性や、生物が環境からくみ取る意味の問題に関してはアフォーダンス理論が精緻に展開していることですし、ハイデガーの『存在と時間』が提示する「適所性」や「道具全体性」の議論とも大きく関係しています。自由であることを意識する必要がないほどに自由であるような環境の最たるものは自分の家でしょう。「わが家」ではあらゆるものが「いつものところ」にあり、私はわが家の「勝手を知って」います。「炭焼き人も一家の主Charbonnier est maître chez soi」というフランスのことわざがありますが、〈自由であること〉が容易に〈勝手であること〉にも転じうるわが家は、〈私はできる〉という「能力」としての自由の基盤であると言えます。

 ここまでの話ではおもに身体的な自由・不自由が問題となっていますが、環境による働きかけは精神的な自由・不自由にも影響を及ぼすと考えられる場合もあります。風土と政治制度の密接な関連については、アリストテレスからモンテスキューに至る長い思想的系譜がありますし、環境決定論にまでいかなくとも、「東京のひとは……」とか「海が近いところで育つと……」といった文言は、日常生活のなかではついつい口にしてしまいがちです。それが「場違い」な発言であったりして冷や汗をかくこともままあります。

 「なんじ殺すなかれ」と迫ってくる他者の「顔visage」の概念を中心に据えた倫理思想家というレヴィナスのイメージからすると、なんともかけ離れた議論に思われるかもしれません。しかし、実のところ、ここで取り上げた「身体」「環境」「わが家」「風土」といった言葉はすべてレヴィナスの哲学の重要なテーマであり、これまでの私の関心である「場所」の思想と大きく関わっています。レヴィナスにおいて、「場所」とは一義的には自らの身体を定位するところ(あるいは定位そのもの)ですが、そこから出発して私の自由が遠心的に拡大していく圏域(身体→家→街→...→地球→?)が広い意味で〈場所〉と見なされます。

 重要なのは、私の了解や所有によって〈私のもの〉となるこのような〈場所〉は、それが〈私である〉と思ってしまうほどに私の自由を基礎づける領域であるとともに、それが「他ならぬ」私の〈場所〉であるがゆえに、〈同じもの〉という閉じた領域でもあるということです。このことをレヴィナスは離脱/拘束の弁証法とか、意識の構成的/被構成的側面の往還関係といった表現を用いて論じていますが、問題になっているのはつねに人間の自由と不自由の問題です。その意味で、レヴィナスの著作の題名にもなっている「困難な自由」という言葉は、レヴィナスの哲学を見事に要約したものなのです。
 さらに、このことと関連して指摘されるべきは、レヴィナスが他者や他者性を問題にするのは、あくまでもこの〈同じもの〉から出発してである、ということです。つまり、直接に俎上に載せられているのは他者性とは何かという問いではなく、〈同じもの〉はどこまでその領域を広げているのかという問いであり、そこでは〈他なるもの〉にぶつかる〈同じもの〉の限界を縁取ることが目論まれています。一言で言えば、いったい私はどの程度まで自由なのか、と問うことが問題になっていると言ってよいでしょう。「私の自由が最後の言葉をもっているのではない、私は独りではないからである」というレヴィナスの至言も、この前提に立って理解されるべきことです。

 私の博士論文では、以上の問題関心から出発してレヴィナスの著作を全般的に読み解きつつ、それと平行して同時代的な思想潮流とレヴィナスの哲学との関わりを探っています。ここでは詳しく述べることができませんが、具体的なテーマとして、人類学や人文地理学における環境(あるいは「環境世界Umwelt」)や、ハイデガーの「場所Ort」の議論、そしてレヴィナスの「場所」の思想と無関係ではありえないイスラエル国家(「約束の地」)の問題などを扱ってきました。特に最初の論点に関しては、雑誌『Résonances』に発表した論文を参照していただければ幸いです(リンク先では、私のものはさておき、同じくフランス語圏をフィールドとしているUTCPの他の研究員の方々の論文の閲覧ができます)。

 現在、私は中期教育プログラム「精神分析と欲望のエステティクス」に所属し、セミナーおよび講演会等に参加して新しい知見を得ながら、ジャック・ラカンを中心とした精神分析とレヴィナスの哲学との関連を検討する作業を進めています。すでに先行研究も少なからず発表されている主題ですが、うえで述べた環境の問題とも深く結びついたレヴィナスの〈病んだ主体〉を分析することを通して、レヴィナスの個別研究に留まらないような広い問いかけができれば、と考えています。

Recent Entries


↑ページの先頭へ