【UTCP Juventus】佐藤朋子
【UTCP Juventus】は、UTCP若手研究者の研究プロフィールを連載するシリーズです。ひとりひとりが各自の研究テーマ、いままでの仕事、今後の展開などを自由に綴っていきます。2010年度の第5回目は特任研究員の佐藤朋子(精神分析史)が担当します。
専門は精神分析史です。これまでの歩みに沿いながら、研究テーマの2つの主要な軸と現在の関心とを以下に紹介いたします。
(1)フランスにおけるフロイト派精神分析の理論活動
私の研究の出発点には、フロイトが開発した自由連想という方法が前提とする心的事象の観方に対する興味があります。フランスで活動した分析家N.アブラハムとM.トロックは、『狼男の言語標本』(1976)と題された著作で、自由連想を拡大した形で実践して見せており、たとえば次のように記しています。——狼男の異名で呼ばれる患者が幼い頃に夢にみたという、巨大な毛虫は、毛虫を輪切りにして遊んでは厳しく叱られたという記憶に通じている。彼において「毛虫」は、端的には、当時の叱責の言葉「大罪」と結びついている。ラテン語「filivs」が求められているところでフランス語の「fils」を書くという彼の失錯行為は、「イゥ」と発音される「iv」を削除することを狙っている。それはそのことを通じて「not you」つまり「あなたではない」を言おうとしている。——次々に繰り出される連想と解釈を前にして、読者には次のような疑問が浮かんでくるかもしれません。どうして、またどのような根拠があって、著者たちはそう主張できるのか。とはいえ、たといこの書物で行われている作業が過剰であるにしても、同音異義語やそれに近い語が相互に連想されるという事態は、実際しばしば起きているのではないか。個人の歴史上のある特異な出来事に由来したり、他処で同様の結びつきをこれまでに生み出してきただろう音韻や形態上の類似にもとづいたり、論理的な推論に依ったりと、きわめてさまざまな仕方で語と語あるいは表象と表象の結びつきが生じうるというのもまた確かなことではないか。そして、そうした広い意味での連想の数々が寄り集まったものとして心的世界の構成を考えることも十分に可能ではないだろうか。
フランスにおける精神分析の発展は、他国においてよりも明示的に精神分析理論およびその概念の特殊性という問題が分析家たちによって提起され深められてきたという特徴をもっています。そこで蓄積された文献をあたるうちに、私はやがて、自由連想をしうるものとして人間の心を肯定する理論はどのようであるかという当初の問いがすぐには回答を得られそうにないことを、そしてその問いはより繊細に分節化するのが適当であることを理解しました。たとえば、1920年代の精神分析の本格的な導入以来、フランスでは、フロイトの著作(ドイツ語)をどのように翻訳すべきか、学問的に、字義的に翻訳すべきか、それとも読みやすさを重視してより自由に意訳すべきか、という問いが重大なものとして課され、分析家たちのあいだで広く議論されてきました。それに並行して、概念の生成の場という資格において分析経験が問題として浮き上がりました。また、分析家が与える解釈に関する批判的考察において「逆転移」という観点が定着し、主観的/客観的という対立にもとづく問題の枠組みがずらされることになりました。そして、分析実践の特殊性との関連で、精神分析の理論的言説としての自律性が主張されました。以上の考察や議論が、つねに精神分析団体という場を中心として、また大学制度のなかに位置づけられるかどうかといった状況で展開されてきたということも、興味深い事実としてここに付け加えておきたいと思います。
文献を読み進めるなかで、また先生方や友人たちから指導や助言をいただくなかで(紙幅上の都合により固有名は割愛いたします)徐々に見えてきたものを、D.ラガーシュ、J.ラプランシュ、J.-B.ポンタリス、N.アブラハムといった分析家たちの仕事に即して少しずつ書き留めていった結果、私の研究は、やや図らずも歴史研究という形をとることになりました。成果の一部は、UTCPのメンバーページで挙げた論文の他、「website SITE ZERO/ZERO SITE」に掲載していただいた短い書評でも発表しています。
フロイト Die Traumdeutung[夢解釈]の仏訳.翻訳をめぐる議論の歴史が題名の訳の変遷に反映している:La science des rêves (1926), L’interprétation des rêves (1967), L’interprétation du rêve (2003).
(2)フロイトのメタ心理学
上記の研究を始めてしばらく経った時点で、フロイト研究を本格的に開始しました。そこでは夢に関する仕事にとくに焦点をあてました。フロイトの『夢解釈』(1900)は、自由連想を、実践例(つまり夢分析)の数々とともに初めて披露した書です。と同時に、分析が明るみに出したものについて思索を練り上げながら、メタ心理学と呼ばれる理論の構築に初めて公に取り組んだ書でもあります。後にその理論は、トラウマを反復する夢という事実によって危機を迎えます。フロイトが『快原理の彼岸』(1920)で危機の超克を試み、その試みが、「死の欲動」という観念の導入とメタ心理学の大規模な再編成とにつながっていったことはよく知られるところです。私は研究のなかで、最初期から最後期まで(1890年代–1938年)のフロイトの著作を読みながら、その夢理論の生成と構造、発展を明確にすることに努めました。
「夢は願望充足である」は『夢解釈』の中心テーゼです。その「願望」がつねに「幼児的」であることをフロイトはさらに主張しています。実践から理論構築までにとられるもろもろの手続きという観点からみたときに、その「幼児的願望」が、他の何にも先んじて定式化されるメタ心理学的概念としてフロイトにおいて現れうることを、私は研究のなかで示そうと試みました。それはまた、エディプス的な「幼児」や、すでに規定された「母」の観念との関連で理解された「幼児」に還元されえない根本的なプロブレマティクとしてフロイト的「幼児」を再発見する試みという意味ももっています。この研究については、全体をまとめた博士論文をフランスのパリ第七大学に提出する予定です。また、日本語でも、より細かな論点のレベルで内容を分割しながら(フロイトの第二欲動理論の構築、その抑圧理論や退行理論の変遷、19世紀のもろもろの科学的探究が織りなす文脈のなかでのフロイトの夢研究の位置、20世紀の思想家たちが試みたフロイトとの対話とそれぞれの争点、等)発表してゆくつもりです。
(3)身体の問いと「応用分析」の可能性
これまでの研究をふまえて、フロイトがとる実践から理論化までのもろもろの手続きにおいてはかならず「身体」の問いの介入が認められるという仮説を私は立てています。その仮説を掘り下げる形で、他処(典型的な例はフロイトによる文学作品の読解や文化論などの応用分析ですが、それらに限定されません)で、いうなれば先取りされた「身体」の問いが、メタ心理学の(再)錬成のなかで引き受けなおされうるという可能性を追究することを現在企図しています。
企図に即して見当を付けている課題は次の通りです。1.フロイトの「生物学主義」(メタ心理学の構築のある契機において「身体」という観念に訴え、「生物学」に問いの解明を委ねるというフロイトの所作に表れている態度)を再評価する.2.「ある器官の性源質、すなわちその性的意味が高まると、その器官における自我機能が損なわれる」、換言するならば、前意識的表象が機能的損害を受ける、というフロイトの命題(『制止、症状、不安』)を指標にしながら、メタ心理学のなかでもとくに「自我」観念の錬成との関連において「身体」の問いの介入を精確に跡づける.3.他の理論家や思想家によるフロイト理論の批判を再読しながら問いを具体的に開発する.
一部はUTCPで口頭発表した際にすでに取り上げましたが、多くの部分はまだ粗描の段階に留まっています。全般的に、またとくに最後の課題について論点を絞っていくなかで、他の方々との研究交流を生かすことができればと願っています。