Blog / ブログ

 

【報告】シンポジウム「坂部恵の銀河系」

2010.07.23 小林康夫, 大橋完太郎, 時代と無意識

昨年6月に逝去されました哲学者坂部恵先生を偲んで、彼の思考の全貌を多方向から問い直す試みが行われました。

100720_Sakabe_Photo_1.JPG

かつて東京大学哲学科で長きに渡って教鞭をとっておられた坂部先生ですが、本グローバルCOEにとりましても、その前身であった21世紀COEの時代から、いくつかの重要な催しにも参加していただき、坂部先生から大いに学恩を被った経緯があります。今回は坂部先生に直接教えを受けた山根雄一郎さん(大東文化大学)、山内志朗さん(慶應義塾大学)、乗立雄輝さん(四国学院大学)、黒崎政男さん(東京女子大学)四名のご講演に加えて、UTCPから小林康夫さんを加えた計五人が登壇され、坂部哲学の開いた知の局面と風景に関して、知的誠実さと哀惜の念にあふれたお話の数々が披露されました。坂部哲学を特徴づける5つの軸から始めて、坂部哲学の「銀河系」の眺望を再構築してみようという試みです。

100720_Sakabe_Photo_2.JPG

山根雄一郎さんの発表は「人間学――坂部哲学の原点」と題されていました。山根さんはカント哲学の研究者として出発した坂部先生が、初期著作『理性の不安』で前批判期の重要性を指摘したことの意義を評価つつ、その画期的な視点をなぜカント哲学の枢軸と目されてきた批判哲学の検討に適用するにまでいたらなかったのか、ということを考察されました。「人間学的」探求とも仮定される坂部先生のカント読解は、実は期せずしてミシェル・フーコーの『言葉と物』と照応する箇所が多数あり、坂部先生はフーコーによるカント批判を評価した上でその仕事をフーコーへと委ね、先生固有の(そしてそれは同時に「日本的な」方向性だったのでしょうか)哲学への道を踏み出されたのではないか、という見解を提示されました。

100720_Sakabe_Photo_3.JPG

山内志朗さんの発表題は「レアリスム――中世哲学の残照」です。坂部先生が常々その重要性を示唆していた中世哲学を自らの専門領域として引き受けられた山内先生は、哲学史上「普遍論争」として知られている、オッカムとスコトゥスの対立、すなわち唯名論と実在論の対立を虚構とみなし、唯名論の徹底、あるいはその根本的な基礎付けとしての実在論的メカニズムを提出されました。「馬性は馬性にほかならない」という命題は決して単純なものではなかったのです。事物を指示する名前のなかに〈もの res〉の実在が幾重にも織り込まれるといった実在論の根本的構図は、坂部先生が「千年に一人の天才」と評価したライプニッツの哲学へとそのまま引き継がれ、来たるべき「モデルニテ・バロック」の基調低音を準備したのです。

100720_Sakabe_Photo_4.JPG

乗立雄輝さんは「事物の枯死しない根――ノミナリスムとレアリスムの〈あわい〉」というタイトルでした。それはカント、ライプニッツとならんで先生が評価したアメリカの哲学者パースの議論を召還するものでした。唯名論的思考が行き着く先に、根源的なレアリスムを必要とする哲学が現れるという近代後期の同時多発的な状況のなかで、アメリカにおけるパースと日本における坂部哲学は同列におかれうるのではないか。そこにおいては、まさしく言語と事物とを紐帯する根拠が問題とされねばならない、というわけです。『ヨーロッパ精神史』中で、象徴主義の背後に「事物の枯死しない根」を見いだす坂部先生の視線はこうした問題意識の所産であり、それは存在している言葉を通じて事物の深奥に分け入る坂部哲学の原理を示すものだと言えるでしょう。

100720_Sakabe_Photo_5.JPG

黒崎政男さんは「インテレクトゥス――精神史とモデルニテの行方」と題された発表で、『理性の不安』から始められた坂部先生のお仕事が、どのようにして日本的精神の再検討へとつながるかという点を明らかにされました。理性の底を問い、それを無底Un-grundや深淵Ab-grundへと開いていく坂部哲学は、自我の崩壊を防ぎ止めるディフェンス・システムとしての「批判哲学」の姿を明らかにするものです。定位し測定するという理性の機能と、それを普段に揺るがす不測のものというこの分裂は、坂部氏にとってそのままボードレールのモデルニテへと接続されるものでした。やがてそれは個体と生命とを媒介しながら第三の個人主義を提唱した岡倉天心の問題とも重なってゆきます。黒崎さんの発表は、理性批判としてのオルタナティヴな理性、すなわちIntellectusが東洋の精神史にまで展開されていく内的論理を繊細かつ丹念に素描したものでした。

4人の方の発表の後少しの間、討議者間での、そして来場の先生方を交えての質疑応答の時間がありました。「ライプニッツは千年の天才、カントは百年の天才」という坂部先生の残された言葉の解釈をめぐって、また、カント哲学の根源的な時間性の在処をめぐって、あるいは坂部哲学は果たして倫理的であったのかという点などに関して、坂部哲学の核心に迫るようなやりとりがしばし行われました。

100720_Sakabe_Photo_6.JPG

小林康夫さんによる発表は、坂部哲学の「倫理」へのひとつの回答でした。小林さんは坂部先生が和辻哲学に対して寄せた注釈を起点にして、和辻倫理学を存在論的なレベルで基礎づけている「風」についての判断と、それを出発点にした坂部先生の考えとの違いについて論じました。風さえも自らの述語判断として読み込む強い人間的な存在論を批判しながら、坂部氏はもはや人間性に立脚しない〈弱い〉アナロギアに基づく存在論を構築した、いや駆動させていたのだ、と。だがこれに続けて、晩年の坂部先生の思考に再び「風」が回帰してくることも指摘されます。詩人吉増剛造さんの折口論「生涯は夢の中径」を「生涯は風の中径」と読み替えるなかに、「風」から「いき」、そして「ことば」へと思考を巡らせ、吹き荒れる風の中からエネルゲイアを汲みつくそうとする坂部哲学の動きが現れているのです。晩年の坂部先生が撮影された一葉の写真は、そのような風の姿をフレームに収めたものと考えることができるのではないでしょうか。

坂部先生の思考をめぐる布置を多様な側面から浮かび上がらせた今回の催しは、研ぎすまされた思考がここかしこできらめいて、坂部哲学の「銀河系」をかいま見させてくれるに相応しいものでした。坂部先生のご冥福を心よりお祈りするとともに、今回の催しが、その「銀河系」を引き継ぎつつ新しい出発を告げ知らせるものであらんことを願う次第です。最後になりましたが、お忙しい中ご出演いただいた諸先生方、関係者各位、および御来聴のみなさまがたに心よりの御礼を申し上げます。

(大橋完太郎)

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】シンポジウム「坂部恵の銀河系」
↑ページの先頭へ