【報告】「近代東アジアのエクリチュールと思考」第6回セミナー
中期教育プログラム「近代東アジアのエクリチュールと思考」の第6回目のセミナーは「永井荷風における視覚表現の両義性――「近代都市」とイメージ造成法――」と題し、宮田沙織さん(比較・修士課程)による発表と、津守陽さん(教養学部非常勤講師/UTCP PD)によるコメントを中心に行われました。
(発表5月21日、討論6月4日)
使用したテキスト
【テキストⅠ】永井荷風『ふらんす物語』(1909)「再会」+前田愛「塔の思想」
【テキストⅡ】「あいまいなものと未完のもの――形態カムフラージュの方法」(ハンス.H.ホーフシュテッタ―著・種村季弘訳『象徴主義と世紀末芸術』)+「鈴木春信の錦絵」
【テキストⅢ】井筒俊彦『意識と本質』+『新古今和歌集』における「眺め」意識
◆発表の部(5月21日)では、従来の荷風研究でいわれてきた「フィルターとしての文学作品」論や「境界人としての荷風」論に関連し、とりわけ荷風においては「窓」というモチーフがテキスト生成に不可欠な装置であるという問題意識を明示した。そこで発表者は、荷風のテキストにおける視覚表現に注目し、分析の結果として、(視覚の知的側面を先鋭化する)「見極める」系統と(視覚の身体的側面を取り戻す)「眺める」系統という視覚表現の両義性を指摘した。この二系統の視覚表現は、一方では(「見定める」)、近代都市システムを支える視覚の制度及びその表象のシステムへの従順を意味するように見えて、実は制度の虚偽を暴き出すことであり、また一方では(「眺める」)、近代に逆行する視線によって描かれた空間の身体性を回復している。
◆討論の部(6月4日)では、人物画と山水画との譬え、「眺め」意識と「倦怠感」について補足があり、さらに「瘴」の地と「マラリヤ」に関する参考資料が配られた。
津守によるコメントは、発表者の三つのテキスト分析に沿って、それぞれの分析に対する細かい論評と疑問点を示した上で、個別の分析結果が必ずしも全体の流れに結び付かないことを懸念し、各着眼点の発展可能性を提案した。とくに議論を発展させたのは、視覚だけが近代の制度とは限らず、聴覚・触角も視覚と同じレベルで前景化されていた、というコメンテーターの指摘であった。その点をめぐって質疑応答が重なるうちに、発表者が強調しようとする荷風のパノラマのような視覚表現は、近代の遠近法のような固定的視線には収斂されない(たとえば、動く・浮遊する視点、視覚に限らない意味では受動的感覚といってもよい)、という別の立場からの分析可能性も浮上した。また,その他の議論としては,文学における病の扱われ方や,理論重視にならないようにするため,できるだけテキストに即して「見る」なのか「見える」なのか,「かぐ」なのか「におう」なのかといった言葉の使い方から能動的・受動的といった側面を分析する可能性なども指摘された.
(裴寛紋, 守田貴弘)