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【報告】「アンティゴネの肯定:純粋欲望、差異の欲望、分析家の欲望」パトリック・ギヨマール氏講演会

2010.07.26 原和之, 柵瀨宏平, 精神分析と欲望のエステティクス

2010年7月2日パリ第7大学教授パトリック・ギヨマール氏の講演会が行われた。ラカンから教育分析を受けた精神分析家であるギヨマール氏は、ラカンが1960年に行った『アンティゴネ』解釈を批判的に読解した『悲劇的なものの享楽』の著者として知られている。「アンティゴネの肯定:純粋欲望、差異の欲望、分析家の欲望」と題された今回の講演において、氏はこの著作を出発点としつつ、ラカンによるこの悲劇の読解を再度検討し、そこから精神分析家の欲望とは一体どのようなものであるかを明らかにしようとした。

 ギヨマール氏がまず強調したのは、ラカンの読解が位置する歴史的な文脈である。ラカンは1960年のセミネール『精神分析の倫理』において『アンティゴネ』読解に着手した。1960年といえば、アルジェリア戦争のただ中である。この戦争に対する批判的な機運が高まる中、妥協することなく兄の埋葬を要求し続けたアンティゴネは、絶対的な大義の殉教者として人々を惹き付けていた。そしてこのことは、ラカンによる読解に対しても少なからぬ影響を与えた。彼はアンティゴネのうちに、自らの欲望に関して妥協しない存在、つまり精神分析の大義である欲望の絶対性を具現する存在を見たのだ。
 もう一つ、ラカンによる『アンティゴネ』読解の背景として指摘しておくべきことがある。それはドイツ観念論の論者たちがおこなった一連の『アンティゴネ』解釈である。『精神現象学』においてヘーゲルは、アンティゴネを人倫の象徴として位置づけたのだが、こうした評価は以後の『アンティゴネ』解釈の帰趨を定めることになった。他方でヘルダーリンは、原作の精神に則って原作を凌駕することを目指しつつ、彼独自の仕方でこの悲劇の「逐語的」翻訳を試みていた(こうした事情についてはジョージ・スタイナーの『アンティゴネの変貌』で詳しく紹介されている)。ドイツ観念論の思想家たちは、アンティゴネを純粋な否定性の形象としてとらえたのだが、コジェーヴを介してヘーゲルの影響を色濃く受けたラカンはこのような解釈を引き継いだのだ。

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 こうした背景の下でラカンは、アンティゴネを純粋欲望の形象として位置づけることになる。それでは純粋欲望とは一体何だろうか。ギヨマール氏によれば、それは無の欲望である。この欲望はすべてを否定し、破壊することを志向するかぎりにおいて――一種の弁証法的反転によって――逆説的にも、何ものをもあきらめることのない、最も肯定的な欲望として捉え返されることになるのだ。
 そしてラカンはこの純粋欲望のうちに精神分析家の欲望の範例を求めることになる。「汝の欲望について譲歩してはならぬ」という言明を精神分析における倫理の格率としたラカンは、純粋欲望に付き従い行動するアンティゴネに精神分析家の姿を重ね合わせたのである。
 しかし精神分析家の欲望をこのように位置づけることは果たして妥当なのだろうか。そこには精神分析のうちに自殺的な契機を呼び込むような危険が孕まれてはいないだろうか。ギヨマール氏は、1960年代初頭にかけてラカンの思索に大きな変化が生じたことに注目する。まず、1962年から1963年にかけて行われた『不安』のセミネールにおいて、残余としての対象aというアイデアが導入されたことで、純粋欲望という概念が想定していた欲望の絶対性が疑問に付される。さらに重要なのは1963年に執筆された論文「カントとサド」である。この論文においてラカンは、無を志向する純粋欲望は、それが対象の全面的な破壊を惹起するかぎりにおいて、サディズムにおける倒錯的な欲望にかぎりなく近接するという洞察に至ったのだ。このような議論を通じて、純粋欲望と精神分析家の欲望とを同一視するという視点は徐々に揺るがされることになったのである。

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 こうした動向の帰結として現れたのが、1964年のセミネール『精神分析の四基本概念』の最終講である。ここにおいてラカンは、1960年に自らがとっていた立場を暗に否定しつつ、「分析家の欲望は純粋欲望ではない」と断言したのだ。それでは分析家の欲望をいかにして位置づければよいのだろうか。ギヨマール氏はその手がかりを、ラカンが先述の最終講で語った「法の諸限界の外部にある愛」のうちに見出す。ギヨマール氏は、この愛こそが精神分析家の欲望の形象だと考えるのだ。とはいえここで言う愛とは、ラカンが1950年代を通じて批判した無限を志向する愛の要求のことではない。氏によればこの愛とはむしろ、対象が失墜するにまかせるような断念として愛なのである(われわれは、愛という主題をめぐるこうした変化の端緒を1960-1961年のセミネール『転移』に見出すことができるだろう)。対象の断念を許さず、それを殺人的な仕方で我有化することを望む純粋欲望の論理を脱臼させる愛のうちに、精神分析家の欲望を位置づけることはできないか――こうした提案によって氏は講演を結んだ。

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 今回ギヨマール氏には、事前に大部の講演原稿を用意していただいたのだが、当日氏は、参加者の要請に応えて、原稿の読み上げではなく、かなり自由な形式で講演を進めてくださった。その様子はさながら即興のセミネールのようであり、氏の明晰な議論展開と圧倒的な雄弁も相まって、会場は大いに盛り上がった。翌日に日本人の精神分析家による臨床報告に対してギヨマール氏がコメントを加えるという臨床セミナーが企画されていたこともあり、講演会には複数の精神科医、精神分析家にお越し頂き、活発な議論が交わされたことも付記しておきたい。

(文責:柵瀬宏平)

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