【報告】「近代東アジアのエクリチュールと思考」第2回セミナー
中期教育プログラム「近代東アジアのエクリチュールと思考」のセミナー.
今回の発表は発表者を森田智幸さん(教育学・博士課程),コメンテーターを刀根直樹さん(比較・修士課程)がつとめ,「明治初期郷学における「中等教育レベル」の教育課程の構想−−神奈川県浦賀村東岸郷学校を事例として−−」という題目で行われた.
【研究の対象】東岸郷学校;明治4(1871)年6月、神奈川県浦賀村に設立。明治6(1873)年6月に閉鎖。その関連資料(主に『学校日誌』『建学記』『諸用留』)によると、約2年間の教育課程について、書籍・学習内容・教師・生徒の4側面から読み取ることができる。
◆発表の部(4月16日)では、郷学設立当初の教育課程の構想とその変容について、とくに先行研究において捨象されてきた漢学を基盤とした教育内容に着目することにより、「中等教育レベル」の教育課程を描き出すことを目的とする、という研究の主題と方法が紹介された。そもそも「郷学」の定義自体が困難であり、事例の分析結果を一般化できない側面もある。しかし、少なくとも当該事例において、「中等教育」(「学制」以後に単線化・一般化される概念として)の前の段階に、手習所のような初等教育でもなく、藩校の専門教育でもない、いわば「中等教育レベル」(なおかつ「学制」以後の小学校にも収まらない教育の水準)の構想が確実にあった、と報告された。
◆討論の部(5月7日)では、郷学の概念をはじめ、発表の際に触れられた教材と学習方法の問題、さらに文体とのかかわり(当時広がりつつあった新しい「啓蒙の言葉」との関連性)などの点で、丁寧なおさらいとともに、発表の内容に即した詳細なコメントがなされた。東岸郷学校は、従来の分類に従うと「第三種郷学」に該当する。ただし、そのように設立主などの設置形態だけに主眼を置いてきた既存の研究に対し、発表者は懐疑的な立場を示した。何度も質疑応答が繰り返されるなかで、発表者の問題意識を改めて確認することができた。つまり、後の小学校(普通教育)に比べても、中学校(実際は高等教育)という概念はあまりにも曖昧であった事実が象徴するように、極端にいえば、当時の「高等教育」は全く熟していなかった、と捉えているのである。
(文責 裴寛紋)