【報告】マリア・コダマ氏講演会「ボルヘスにおける他者のテーマ」
5月17日(木)、ホルヘ・ルイス・ボルヘス財団の理事を務めるマリア・コダマ氏の講演会が駒場キャンパスにて行われた。「ボルヘスにおける他者のテーマ」と題された今回の講演は、文学者ボルヘスの想像力の根底にある原理を、多彩なレフェランスを散りばめながら追いかけていく、きわめて魅力的なものだった。
自己の二重性をめぐる西洋言説の伝統は、ナルシス神話から始まり、幾多の変奏を経て今日まで至っている。のみならず、ナルシス神話を自己愛の発露とみなす解釈は、ヘラクリトスの「同じ川に二度と入ることはできない」という言説によって否定される。つまり川に映った自己像は、正しい自己像ではなく、結局のところそこではすでに、自己と自己ではないものの二重化が問題になっているのだという。その意味で自己の問題とは他者の問題であり、とりわけ――「極端同士を一致させるもの」というヘラクリトスの基体(=神)概念を思い出すならば――それは善悪に二重化した自己の問題にほかならない。自己とは相反する要素の結合からなる。
近代西洋文学における自己の二重性の問題系は、スティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』およびオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の二種に代表される。前者は二重化された自己が悪として実体化させているが、後者においてその悪は、動かない肖像の中に反映されていくにすぎない。他者は悪の姿をとって、逃れ難く自己に伴っている。ボルヘスの場合はどうだろうか?ボルヘスの仕事は、結局のところ、こうした自己に伴う他者、自己の中にある他者をあぶりだすことに向けられているのではないか?
『同じもの、他なるもの』と題された詩集のなかの一編「他なるもの」という詩は、時間の外にある第三者、永遠の審級である神が、同じものにも他なるものにもなりえる他者であるということを述べている。『砂の本』中の「他者」という短編では、自己を分割することなしに自己を考えることの不可能性が述べられている。
さらに具体的に考えるならば、この他者とは、作家の営みを指し示すキーワードなのかもしれない。作家が作り出す作品は読み手の前で無限にその意味を変える他なる装置であり、同時に作家も――とりわけボルヘスはそうだ――書くことによって、忘却という他者からの逃走を試みているからだ。
ボルヘスにおける他者は、ほかにも、アメリカの作家エマーソンや、たとえば「虎」や「囚われ人」というテーマのなかにも見つけることができる。たとえば「虎」について。ボルヘスは図書館の薄暗がりに虎を見つける。肉と血からなるこの「虎」は、人間によって観念化されるとその豊かさを失ってしまう。おのおのの経験に潜む「虎」を、概念化することなく生け捕りにする必要をボルヘスは説く。
この文脈でコダマ氏が強調したのは、「マルコ福音書」という作品だ。若き医者であり学生でもある主人公バルタザール・エスピノーザは、作家ボルヘス、その名が響くバルーフ・スピノザ、さらには実際の福音記述者マルコと重ねあわされたこの著作は、ボルヘス自身による20世紀の福音書として考えることができる。自己と自己の鏡像、さらには歴史的な人物と虚構の人物とが相互に反射しあい、自己から発する他者の道行が十字交差(=十字架)を描くことになる。そこで自己は、自己の顔に他者の顔、すなわち隠れたる神の顔が到来するのを待っている存在として描かれている。
他者の影にある神、ヘラクレイトスな一者の介在を可視化するものが、ボルヘスにとっては「俳句」であったというコダマ氏の最後の指摘は、わたしたちを驚かせた。神的なものが決して読まれることのない漢字として現れつつ、暴力的な17個の音節がそれを開示するという仕組みの中に賭金を投じたボルヘスの思考は、わたしたちにとっても手つかずの可能性として残されている。
文学の――そして、会場からも指摘されたことだが、それはもはや哲学だとさえ言える――実践を通じて自他の境界や現れを問い続けたボルヘスの営為を、詳細を尽くして説明したコダマ氏の講演は、二つの領野の相互性と深遠さを際立たせるきわめて興味深いものであった。質問に対して付言された小林康夫拠点リーダーのショート・ノーティスを書きつけておきたい。ランボーの有名な ”Je est un autre”が、私の他者性を物語る西洋文学のメルクマールとしてあるならば、ボルヘスにとってその宣言は “Je suis un autre”とでもいうべき言表によってカバーされるであろう、と。自他を切り離しつつ結びつける存在の様態の基盤を自己性におくのか他性におくのか、自己の自己性(そうしてその他者性)に関わる小さな、しかし大きな差異が、そこには横たわっていると言えないだろうか。
書くこと、自分であること、自分ではない他者であること、だがそれは、つねに逃走の場であること。エクリチュールにまつわるこれらの根源的な運動と契機が、束の間、その姿を見せた。
(大橋完太郎)