【報告】「仮象と装い―メルロ=ポンティとドゥルーズにおける身体性と動物性」P・ロドリゴ氏講演会
2010年4月13日(火)、東京大学駒場キャンパスにて、法政大学エラスムス・ムンドゥス・プログラムとの協力のもとで、ブルゴーニュ大学教授ピエール・ロドリゴ(Pierre Rodrigo)氏の講演会が催された。
当日の会場では増田一夫氏(東京大学)を司会に迎えた。また、講演内容を記したフランス語の資料と、服部李江子氏(大阪大学)によるその日本語訳が配られた。案内をみてそれぞれに集まってきた聴講者で満席のところに、エラスムス・ムンドゥス・プログラムに参加する学生と教授のグループが安孫子信氏(法政大学)の引率のもとで加わったため、臨時で席をあらたに設けながらの会の開始となった。
ロドリゴ氏は、アリストテレスやベルクソン、バシュラールなど多様な哲学者をとりあげながら、とくに現象学の領域において継続的な仕事を現在まで行ってきている。昨年には現象学と美学の問題として志向性を考察する書を上梓しており、それが、氏にとって、今回の講演会に時間的にもっとも近く先立つ単著の刊行物となる。
「仮象と装い――メルロ=ポンティとドゥルーズにおける身体性と動物性(Le paraître et la parure. Corporéité et animalité chez M. Merleau-Ponty et G. Deleuze)」というタイトルは、ロドリゴ氏が設定し提案しようとするある問題の枠組みに送り返している。狙うところを講演冒頭で簡潔に予告した上で、氏は、続く時間全体を費やして、自らの試みを支えうるであろう思想史上の流れを次のように描き出した。
(1) フッサールは、いくつかのテクストで、動物性の問いを分節化しながら、感情移入(Einfühlung)という従来の観念を引き受け直している。なかでも『危機』第3部の付論23では、「動物的共世界」あるいは「実質的な動物存在論」の構想を粗描し、それと同時に、生きている身体性というものをまさに現象学的問題として決定的な仕方で突出させるまでにいたっている。
(2) 1942年のメルロ=ポンティ(『行動の構造』)は、生きている有機体が呈示する「意味作用の統一」のうちに、生まれ出ようとする知解可能性という問題を標定する。彼はさらに、動物的生の志向的構造の記述という課題をそこで予感しているが、実際にそれにとりくむことはない。
(3) 1957-1960年(とくに「動物性、人間身体、そして文化への移行」と題された1957–58年の講義)のメルロ=ポンティは、暗に陽に、上述の『危機』のフッサールとの対話ないし対峙を、そして、『行動の構造』で自身が先だって展開した思索の遡及的な基礎づけを差し出している。彼がいまや明示的に述べるところによれば、感情移入は、動物と動物を知覚するわれわれとのあいだに指し示されうる問題、「知覚」の側で探究すべき問題である。問題のそうした同定と同時に、第一に、「知覚」が、「環世界」や「プラン」という概念と分節化され、「世界のうちへの肉的な挿入」を証し立てるものとして示される。第二に、動物間の知覚的関係に付随する現象、なかでも、多様な装い(parure)の戯れという形をとる現れ(paraître)の豊穣なる増大という現象についての深められた分析を通じて、知覚野に与えられるべきある資格、すなわち「ある間動物性、ある間主観性の出頭(comparution)の領野」としての資格が明らかになる。
(4) ドゥルーズは、1970–90年代に発表した仕事のそこかしこで、世界や科学、芸術といった問題への現象学的アプローチに対してはっきりと異議を唱えた。知覚を特権的な仕方で扱う現象学者に抗して、ドゥルーズは、たとえば動物における芸術の始まりを記述しながら、(「感覚ブロック」としての)「被知覚態(percept)」の優位を打ち立てようとする。しかしながら、当の記述のうちには、間動物性の世界へとまたしても開かれるだろう動物における模倣と装いとが問題になっているのがみいだされる。また、その記述の前後でドゥルーズが展開している現象学批判は、「肉」の存在論的次元を現象学者が問おうとするところで中心的な役割を演じる「切迫」という概念を十分に考慮していないかぎりにおいて、留保なしに受け入れることができないものである。つまるところ、メルロ=ポンティのうちに世界、プラン、肉からなる概念的セリーを、そしてドゥルーズのうちに肉、プラン、宇宙からなる概念的セリーをそれぞれ浮かび上がらせるとき、われわれは、たしかに不協和音にみちているとはいえそれでもなお共鳴と呼ぶべきものをそのあいだに聞き取る試みへと導かれるのである。
会場を交えての議論が発表のあとに続いた。メルロ=ポンティに関して上がった質問では、『知覚の現象学』(1945年)の位置づけや、感覚、時間、時間性といった問いとの関連における動物性をめぐる思索の展開に対して関心が向けられた。ロドリゴ氏が描いた思想史上の流れに関しては、ドゥルーズだけでなく20世紀のフランスで活動した他の思想家たちの仕事も参照しながら、いくつかの論点においてより精確な考えを氏から聞き出そうとする質問が発された。筆者にとって質疑応答のなかで個人的にとくに興味深かったのは、メルロ=ポンティの語としてロドリゴ氏がここにいたって初めて口にした「自然的象徴(化)」である。まず(動物性のレベルにおける)感覚の地位を問題にしている文脈で、次に「切迫」の構造という考えを敷衍する文脈で氏が用いたそれは、メルロ=ポンティが「感情移入」を引き受け直しつつあらたに浮き彫りにした問いの次元を知らせる語の一つとして重要であると思われた。
なお、メルロ=ポンティが1950年代末に展開した思索の注釈を締めくくるところでロドリゴ氏が喚起した「肉の理論」――氏によれば、「切迫」を中心概念の一つとする理論――は、元の文脈では、精神分析を名指しで呼び出し、欲望、リビドー、エロスというその概念を取り込んで自らの一部にしようと試みている。講演会当日にはあまり掘り下げられなかったという意味でこれはやや余談になるが、「精神分析と欲望のエステティクス」というプログラムの活動にとっての今回の企画の位置づけをいっそう明確にするのに役立ちうるという利点を鑑みて、ここに書き留めておくことにしたい。
(佐藤朋子)