【報告】異議申し立てられた記憶における犠牲者意識の民族主義:国家による追悼とグローバルな説明責任
2010年4月21日(水曜日),漢陽大比較歴史文化研究所所長である林志弦(イム・ジヒョン)さんの講演会, “Victimhood Nationalism in Contested Memories: National Mourning and Global Accountability”(「異議申し立てられた記憶における犠牲者意識の民族主義:国家による追悼とグローバルな説明責任」)を開催しました.
イム・ジヒョン先生はポーランドの歴史研究をバックグラウンドとして,ドイツのナチスによって行われたホロコーストや東アジアにたいする日本の植民地支配をテーマに「犠牲者意識」について研究をしています.
今回の講演会のテーマはわたしたち,現代に生きる一般市民が過去の日本の植民地支配の責任をどのように捉えたらよいのか,という問題に示唆を与えてくれるものでした.
イム・ジヒョンさんの主張は「犠牲者意識があるということを強調することでナショナリズムが助長されてしまう」というものです.韓国の人には日本によって植民地支配されたという犠牲者意識があります.また日本の人には原子爆弾を落とされたという犠牲者意識があります.そういった犠牲者意識は世界中あらゆるところに蔓延していて,アメリカの人はアメリカ同時多発テロ事件の犠牲者であるという意識を強く持ちうるでしょうし,そのテロ事件を起こしたといわれているアルカーイダにもアメリカへの富の集中と軍事的支配が自分たちの生活を脅かしているという犠牲者意識があったのでしょう.このように,世界中,いたるところに犠牲者がいて,それぞれがみな,犠牲者意識をもっているのです.この犠牲者意識がナショナリズムを正当化し,さらに助長させてしまうのだ,とイム・ジヒョンさんは論じました.
植民地支配にせよ,ホロコーストにせよ,同時多発テロにせよ,すぐに「だれが責任を負うのか」「責任はどこにあるのか」と問われるわけですが,しかしながら,こうした責任の所在を突き止める作業というのはしばしばとても空虚なものになりかねません.わたしたちは歴史的に起きた出来事にかんして異なったしかたでの責任の取りかたを必要としているわけです.わたしたちの歴史は一般市民の記憶の集まり,すなわち「集合的記憶」によって編まれているといえます.戦後世代の人間の責任を考えた場合,その集合的記憶がいったいどのようにして形作られていくのか,そうした集合的記憶の形成にはどういった背景的状況があるのか.このように問うことによって,歴史が作られていくプロセスに敏感でなければならないかもしれません.もちろん,それは事実から目をそむけて欺瞞的歴史を作ってしまってもよいということでなく,歴史および過去の事実についての徹底した反省を必要とすることなのですが.
中澤栄輔,守田貴弘,吉田敬