【報告】映画「哲学への権利―国際哲学コレージュの軌跡」上映・討論会
2010年3月27日、東京大学駒場18号館ホールにて、映画「哲学への権利 ― 国際哲学コレージュの軌跡」の上映がおこなわれ、討論会がボヤン・マンチェフ(新ブルガリア大学、国際哲学コレージュ副議長)、ジゼル・ベルクマン(国際哲学コレージュ・プログラム・ディレクター)、小林康夫(UTCP)、西山雄二(UTCP)によって実施された。桜が咲き始めたものの花冷えする気候のなか、210名ほどが集まる盛会となった。
「旅思(4)――映画『哲学への権利』巡回上映の旅の記録」(10分30秒)
まず、西山雄二から、拙映画「哲学への権利」を、東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)」にて上映することの喜びが告白された。「大学、人文学、哲学の現在形と未来形をいかなる制度として実現すればよいのか」――これはUTCPが取り組み続けている重要な問いである。「人文学の研究教育の領域横断的な可能性を国際的な次元でいかに発展させていくべきか」、その先駆的な事例が国際哲学コレージュであり、UTCPはコレージュをモデルとして創設されたのである。
次に、ボヤン・マンチェフは、国際哲学コレージュの4つの使命を提言した。1)規範化される現在の哲学の傾向に抗して、活気ある新たな哲学的実践を創出する場であること。2)現在の状況(とりわけ政治的状況)に対して批判的な場であること。3)優れて国際的な場であること。それはたんに外国人教師を増やすだけでなく、別の言語、別の哲学の舞台へと開かれるのか、つまり、私たちの世界の真の他性化を思考することである。4)哲学教育について議論され、新しいタイプの哲学教育の探究と実験がおこなわれる場であること。
ジゼル・ベルクマンによれば、「哲学への権利」はパフォーマティヴな題である。今回は日本人研究者が「はるかなる視線」(レヴィ=ストロース)をコレージュに投げかけることで、哲学に対する「別の」関係が示されている。彼女は、場所や空間、現場の問いに着目する。というのも、コレージュはパリのデカルト通りに事務局が設置されているものの、キャンパスをもたず、いたるところで研究教育活動が展開されるからである。コレージュの理念とその歴史性という二重性を、コレージュのユートピア性に即していかに考えるべきか。批判的な抵抗の場であり続けるべきか、時流に適合した場となるべきか。いずれにせよ、哲学に即した思考の実験こそがコレージュの責務であり続けるだろう。
小林康夫は、まず、UTCP創設時にジャック・デリダを招聘しようとしていたことを告白し、コレージュとの歴史的な関係を強調した。そして、「(西洋)哲学は無実ではない」と自説を展開した。現在の資本主義社会や民主主義政治などと深い共犯関係にあり、もっと言えば、哲学こそが現下のあらゆる事象や体制を生み出したのである。それゆえ、世界そのものに対して哲学には責任がある。思考が哲学を越えて、哲学の罪を突き抜けるためにはどうすればよいのか――歴代の哲学者たちはこの限りなく不可能な問いに取り組んできたはずだ。たしかに、哲学は孤独な作業たりうるが、しかし、こうした哲学の責任を目指す国際的な連帯のための場も必要である。たんなる国際的な交流ではなく、別の思考との出会いを通じて(西洋)哲学の営みを突破すること――UTCPもコレージュもこうした使命を負っているのである。
終了後に気持ちのこもった数多くのアンケート回答をいただきました。心より感謝申し上げます。「勇気づけられた」という表現が散見されたことは、こちらとしては嬉しい限りです。そのうちのいくつかを紹介させてください。
「こうした映画の上映会にこれだけの人が集まるほど、哲学や大学が関心を集めるなら、日本もまだ捨てたものではないのだろうか。」
「音楽や映像を通して『問い』が提示される迫力は、様々な背景をもった人々によって形成されているこの『場』と合わさって、想像を絶するものがあった。」
「静かな、しかし刺激的な不思議な余韻が残った。映画で語られた、ある意味、断片的な国際哲学コレージュの理念や姿が、上映後の出演者の話によって奥行きを与えられ、立体的なものとなった。哲学や思考が現在の世界を形作っているだけでなく、私たちがこれから向かおうとする未来への礎や指針に欠かせないものだと再認識した。」
「『哲学への権利』を分からせる、というより、うまく気づかせてくれる、そんな映画だった。」
「今日はじめて『哲学への権利』という言葉の意味がわかりました。6回目にしてやっとです(笑)。この表現を上手いこと考えたなあ、と本当に思いました。どう分かったかは言語化できませんが、身体に染み込んできた気がしました。」
「哲学という学問をもっと大きな枠組みのなかで理解する視点をもつことができた。」
「日本人がなぜフランスでインタヴューをするのか、日本の哲学状況での位置づけ方はまだ軽薄であるようにみえた。」
「大学に入って、はじめて哲学というものに接して戸惑ったときのことを思い出した。」
「自らへの批判的な問いも含めて、UTCPという場についても、外部の方が取材し、映像化されれば、と願う。」
「UTCPは税金を上手く使っていると思う。」
「私は会社員ですが、哲学とビジネスが切り離されたものではなく、どのように関係しているのか、その関係を築いていくべきか、考えるとともに、それを実生活に反映していきたいと思います。さまざまな立場の人が気軽に哲学に携われる、触れられる場が増えることを願っています。」
「社会学を専攻しているのですが、ディシプリンそのものを探すことに不安な気持ちをずっと抱いていました。しかし、今日の映画を通じて、より開いたものへと向かう哲学の『こと』を知ることでその気持ちが解消され、自分のやっていることを前向きにとらえ直すことができた。」
「この映画はコレージュの制度について説明する辞書的ドキュメント。したがって、ダイナミズムがまったくなく、単調だった。」
「現在の大学のつまらなさについて言い出したらきりがないが、大学の中から、外から考えることを貫徹するために動いている人たちがいることは、本当に心強く感じた。」
「人々の暮らしに哲学が日常的に息づくことの大切さを改めて学ばせていただきました。とくに日本が現在、大きな分岐点にさしかかっているなかで『思考する』私たちこそ重要なことだと思いました。」
「哲学の可能性を開くチャンスは、私たちのさまざまな現場にもあるのではないか、そのような発想から何かを考えられるのではないか、と勇気づけられた。」
「働きながら、これからも死ぬまで学び続けていきたいとの思いを強くしました。」
「この映画も討論会も哲学の保身に染まり過ぎていたように感じた。」
「各人の話の先に目には見えない、理想的な国際哲学コレージュが感じられた。それは、人間にはけっしてつかみ得ない真理を追究する哲学の姿と重なり、同時に哲学そのものが肯定されたように感じられ、勇気をもらった。」
「やはりデリダという固有名の大きさにはあらためて感嘆せざるをえない。」
「駒場図書館で働いています。いま、図書館では仕事を業務委託の形で、業者の入札に任せようという話が出ています。哲学の抵抗の仕方に興味をもってここにきたのだと、映画を観ているうちに気がつきました。今ある制度を積極的に活用しようとしている小林先生の言葉と、コレージュで抵抗されている先生方、映画を製作された西山先生の姿勢がとても印象に残りました。図書館の小さな仕事ですが、私なりにできることをやっていこうと思いました。」
「素晴らしい映像と討論会だった。哲学の責任を、その距離を測る思索を受け止める、享受する、歓待する権利は私たちにすでに訪れているのだ。」
「日本にも国際哲学コレージュのような場があればいいのに。無料で市民に開かれながらも、しかし、質の高い哲学議論が交わされる場が……」という感想をしばしば耳にする。だが、今回来場された方はおそらく気づかれたことだろう――UTCPこそが日本の「国際哲学コレージュ」的な場である、いや、パリのコレージュ以上に活気のある先鋭的な人文学の国際的拠点である、と。
(文責:西山雄二)